【全編朗読】江戸川乱歩『暗黒星』- 見えざる悪魔が巻き起こす血の惨劇! オーディオブック【字幕】
暗黒星 江戸川乱歩 恐ろしき前兆 東京旧市内の震災の大火にあわ なかった地域にはその後発展した 新しい大東京の場末などよりも 遥かに淋しい場所がいくつもある 東京のまん中に荒れ果てた原っぱ 倒れた塀明治時代の赤煉瓦の建築 が廃墟のように取り残されている のだ 麻布のk町もそういう大都会の廃墟 の一つであった 震災に焼きはらわれた数十軒の家 屋のあとが一面の草原に取り囲 まれるようにして青苔の生えた 煉瓦塀がつづきその中の広い地所 に時代のために黒くくすんだ奇妙な 赤煉瓦の西洋館が建っている 化けもの屋敷のように建っている 明治時代物好きな西洋人が住宅 として建てたものであろう 普通の西洋館ではなくて建物の 一方にやはり赤煉瓦の円塔のようなもの が聳えているし建物全体の感じ が明治時代のつまり十九世紀末 のものではなくてそれよりも一 世紀も昔の西洋画などでよく見る まあお城といった方がふさわしい ような感じの奇妙な建物であった そこは大きな屋敷ばかり並んだ 町に囲まれているのでめったに 通りかかる人もないような大都会 の盲点ともいうべき場所であった がもしわれわれが道にでも迷って その西洋館の前を通ったとすれば 突然夢の世界へはいったような 感じがしたに違いない ああこれが東京なのかしらと狐 につままれたように思ったこと であろう それほどその場所と建物とは異国 的で現代ばなれがしていた 年代をはっきりしるすことは差し 控えるがある年の春も半ばのどん よりと曇った夜のことであった その奇妙な赤煉瓦の建物の中に 五六人のしめやかな集まりがも よおされていた といっても廃墟に巣くう盗賊な どのたぐいではない その西洋館に住む家族たちの集 まりなのである この古城のような建物には人が 住んでいたのだ
奇人資産家として人にも知られた 伊志田鉄造氏一家のものが住ん でいたのだ 近所の人はその伊志田氏の姓を 取ってこの怪西洋館を伊志田屋敷 とも伊志田さんのお城 とも呼んでいた お城 には五六人の家族と三四人の召 使いとが住んでいるらしかった が夜になればどの窓も明りが消えて 建物全体がまっ黒な大入道のように 見えた 昼間でもお城 はひっそりと静まり返っていて 建物の広いせいもあったのだろう が二階の窓に人の影の映ることも 稀でそとからはまるで空き家のように 感じられた 時たま窓から人の顔などが覗いている となんだか物の怪のように無気味 で通りかかる付近の人を怖がら せるほどであった そういうお城の中の一ばん広い 客間に五六人の人影が声もなく 腰かけていた 電燈は消えてまっ暗な闇の中に それらの人影はほとんど身動き もせずじっと静まり返っていた 兄さまどうなすったの早くしなく ちゃあ 闇の中から可愛らしい少女の声 が叱るような調子で響いた ウンすぐだよ なんだか今夜は器械がいうことを 聞かないんだ よしっさあはじめるよ 若々しくやさしい男の声が答え たかと思うと突然ジーンとモーター の回転する音がしてカタカタカタ と歯車が鳴り出した そして部屋の一方の壁が一間四方 ほどボーッと薄明かるくなって そこに人の姿がうごめきはじめ た 十六ミリの映写がはじまったのだ なんでもないことなのだ しかしそれが果たしてなんでも ない映画鑑賞として終ったかどうか その夜は何かしら家族の人たち を脅えさせるようなものがその 部屋の闇の中にたちこめていた 十六ミリのフィルムには伊志田 家の家族の人たちが写っていた
広い庭の樹立を背景にして余り はっきりしない人影が五十歳ほど のでっぷりしたひげのある紳士 やその夫人らしい人や二十二三 の美しい令嬢や十六七歳の可愛 らしい女子学生や腰の二つに折れた ようになったひどい年寄りのお 婆さんなどがまるで幽霊のように 暗い樹立の前を妙にノロノロと 右往左往していた ほら僕の大写しだよ 器械をあつかっていた黒い影が 又やさしい声で言ったかと思う とスクリーンの画面がパッと明 かるくなって一間四方一杯の大きな 人の顔が現われた まるで女のように美しい二十歳 あまりの青年の顔である 長いつやつやした髪をオールバック にして派手な縞のダブルブレスト を着ている まっ白なワイシャツの襟大柄な 模様のネクタイ 僕の大写しだよ と言ったのをみると今映写機の そばに立って技師を勤めている のがこの美貌の持ち主に違いない スクリーンの美しい顔がニッコ リした 睫毛の長い一重瞼が夢見るように 細くなって片頬に愛らしいえくぼ ができて花弁のような唇からニ ッと白い歯が覗いた だがその笑いがまだ完成しない 前にどうしたことかカタカタと 鳴っていた歯車が何かにつかえ たように音を止めて同時にスクリーン の巨大な美貌が笑いかけたまま の表情で生命を失ったかの如く 静止してしまった 美青年の技師が不慣れであった せいか咄嗟の場合映写機の電燈 を消すのを忘れてぼんやりしていた ものだからレンズの焦点の烈しい 熱がたちまちフィルムを焼きはじめ 先ず美青年の右の眼にポッツリ と黒い点が発生したかと思うと みるみるそれがひろがって眼全体 を空虚な穴にしてしまった 美しい右の眼は内障眼のように 視力を失ってしまった 一瞬にして眼球が溶けくずれ眼窩 の漿液が流れ出すようにその焼け 穴は眼の下から頬にかけて無気味 にひろがって行き愛らしいえくぼ
をも蔽いつくしてしまった 美青年の半面はいまわしい病のために くずれるように眼も眉も口も一つ に流れゆがんで行った 兄さまいけないわ 早く 少女の甲高い声とほとんど同時に カチッとスイッチを切る音がして たちまちスクリーンが闇に蔽われ 醜い歪んだ顔の大写しは幻のように 消え去った やっと技師が映写機の電燈を消した のである 電燈をつけましょうか これは闇の中からの中年の婦人 の声であった なあに大丈夫です すぐ映りますよ そして何かしばらく映写機をいじ くっていたが間もなくカタカタ という歯車の音が起こってスクリーン に次の場面が映りはじめた 一分ほどは何事もなく家族らしい 人たちの動作が次々と映し出された がやがて又大写しの場面がきた 今度は美青年とほとんど同年輩 に見える美しいお嬢さんの顔であった 美青年の美しさを凄艶と言い得 るならばこのお嬢さんの美しさ は華麗であった 桃色の牡丹の花が今咲きそめた ようにあでやかであった だがなんという不思議な偶然で あろう 画面の大写しとなるや否や又しても 映写機の回転がピッタリと止ま った そして人々がギョッとしたように スクリーンを見つめているうち にそのお嬢さんの牡丹のように 美しい顔の唇の辺にポツリと黒点 が現われたかと思うとまるで夕立 雲がひろがりでもするようにジ ワジワとしかも非常な速さで恐ろしい 焼け焦げの痕が唇全体を蔽い消 していった 唇のなくなったお嬢さんの巨大な 顔が眼と頬だけで笑っていた あでやかに笑っていた だがそれがあでやかであればある ほど溶けて流れた唇のあとが物 凄く恐ろしかった しかもその溶解は唇だけにとど まらずちょうど口からおびただ
しい液体が流れ出す感じでみるみる 下顎全体を蔽い尽したちまち美しい 笑顔の下半分を身震いするような 化物の形相に変えてしまった 一間四方の巨大な顔がしかもそれ を見物している人自身の顔がハ ッとする間になんともえたいの 知れぬ怪物に変って行く恐ろしさ フィルム面上の焼け焦げは二ミリ か三ミリなのだ それがかすかな焔を発して燃える のだ しかしスクリーンの上には千倍 万倍に拡大されて写される 燃えひろがる早さも焼け焦げ独特 のジワジワした感じであるがそれが 千倍万倍の速さになって顔面の 皮膚を這いひろがるのだ 溶けただれて行くように虫に喰 われて行くように一瞬にしてわが 相好の変って行く恐ろしさ そのなんとも言えぬ恐怖は自分自身 の大写しの映画面が焼けて行く のを実際に見た人でなければ想像 できないかもしれぬ それは血みどろになって手術を受ける 恐ろしさわが顔が醜悪なる怪物 になって汚されてゆく無気味さ いやそういう現実的なものでなくて 思わずうめき声を立てるような 悪夢の世界でのみ経験し得る戦慄 であった 美青年の映写技師は今度は前よりも すばやく器械のスイッチを切った のだがその咄嗟のあいだにスクリーン の美しい顔は半分以上溶け流れて いたのである 怖いわ怖いわ兄さま 可愛らしい少女の声が闇の中から 脅えたような甘えるような調子 で聞こえた よそう もうよしましょう 僕もなんだかいやな気持になった お母さま電気をつけてください 一つの黒い影が無言で立ち上がって 壁のスイッチに近づいたかと思う とパッと室内が明かるくなった 今までの暗さに比べてまるで真昼 のように明かるかった どうして止すんだ つづけてやればいいじゃないか 家族たちの一方の端に腰かけて いた人物が美青年を詰るように 言った
その人物はさいぜんスクリーン の中を歩いていたあのでっぷり 太った口ひげのある五十恰好の 紳士であった この家の主人伊志田鉄造氏である でもお父さま僕なんだかいやあな 気持なんです 恐ろしいのです スクリーンで見たと同じあの凄 艶といってもよいほど美しいダブル ブレストの青年が映写機のそば を離れながら青い顔をして答え た 恐ろしいって 伊志田氏は又かと言わぬばかり の苦い顔をした 一郎お前このごろどうかしてい るんじゃないのかい 病気なのじゃないのかい 妙なことばかり言っている ほんとうよ 一郎さん病人みたいよ まっ青だわ これも今スクリーンで見たばかり のあの美しいお嬢さんであった この家の長女美青年一郎の姉綾子 である 僕のこの気持はなんといって説明 していいかわからないのです 前兆としか考えられないのです 僕たちのこの家に何かしら恐ろしい 禍の起こる前兆としか考えられない のです 今もあの映画を写しつづければ きっと僕とお姉さまだけでなくて お父さまも鞠子も大写しの顔が出る たびに同じ事が起こったに違い ないんだ 僕はちゃんとそれを知っていたんだ あの夢で幾度も見て知っていたんだ 青ざめた美青年は物狂わしく言い 張った 夢ってお前どんな夢を見ました の 母夫人が心配そうに顔を曇らして おずおずと訊ねた この人もスクリーンに現われた 人物の一人であった 髪形や服装は主人鉄造氏の年配 にふさわしい地味なものを身に つけていたがよく見ればその頬 はつやつやしくまだ四十歳には 間のあるらしい上品な美しい人 であった 恐ろしい夢です
僕は今まで誰にも言わなかった けれどそれは口に出すさえ恐ろ しかったからです よしなさい お前は本を読み過ぎたのだ 神秘宗教だとか心霊学だとか妙 な本ばかり読みふけるものだから つまらない夢を見るのだ さあもういいからみんなあちら の居間へ行こう 主人がそういって立ち上がるの を青ざめた美青年は真剣に引き とめた いいえ僕はしゃべってしまいた いんです みんなに聞いてもらいたいのです あんなに言うんだから話させる がいいじゃないか 夢というものはばかにできません よ 一郎への助太刀のように一同のう しろから不明瞭なしゃがれ声が 聞こえてきた そこの椅子にからだを二つに折 ったようにして腰かけている祖母 の声であった まっ白になった髪をオールバック のように撫でつけた下に歯がなく なっているのになぜか入歯をしていない のでひどく平べったく見える皺 くちゃの顔があった 細い眼で老眼鏡の上から上眼使い をしながら歯のない口をモグモグ させて物を言う様子は何か不思議な 鳥類のように見えた おそらく七十歳をくだらぬ老年 である ああお祖母さまはわかってくれ ますね 僕その同じ夢を三晩もつづけて 見たのです どこだかわからない地の下のほ ら穴のようなまっ暗な所なのです そこに僕が坐っているのです 僕は石の像になって坐っている のです 石で造った像ですから血も通わ なければ呼吸もしないのです そのくせ眼だけはハッキリ見えている のです そのまっ暗闇の空の方からまるで 紐でも吊り下げられでもするように まっ逆さまになったはだかの人の 姿がスーッと下へ降りてくるの です
闇の中にその人の姿だけがまっ白 に浮き上がって恐ろしいほどハ ッキリ見えるのです そのはだかの人がお父さまなん です そしてお父さまの両方の眼がつぶ れてドクドクと血が吹き出している のです その次にはお姉さまがやっぱり 逆さまにスーッと降りてくるの です お姉さまは口をまっ赤にしてい るんです ちょうどさっきの大写しのように 口から顎にかけて血だらけになって いてその口から地面まで太い毛糸 のような一本の血の筋がツーッと 流れているのが闇の中にクッキリ と見えるのです それから鞠子が鞠子も可哀そう にやっぱり眼をやられているの です そして綺麗なはだかになって逆さま に落ちてくるのです いや落ちてくるのじゃありません ちょうど窓ガラスを雨の雫がた れるようにゆっくりゆっくり降りて くるのです 僕は恐ろしさに叫ぼうとしても 石像ですから声を出すことができません 駈け寄ろうとしても立ち上がる ことができません ゆっくりゆっくり降りてくるお 父さまやお姉さまや鞠子の死骸 をいやまだ死骸ではないのかもし れませんがそれを身動きもせず じっと見ていなければならない のです それが三晩もつづいたのです 僕がどんな気持だったかおわかり になりますか それだけじゃないのです まだ上の方から降りてくるやつ があるのです まっ逆さまに大の字になって右 の眼が空ろになってその穴から タラタラとまっ赤な液体を垂ら して それが誰だと思います 僕なのです 僕自身なのです 僕はこの眼で僕の無残な姿を見た のです 僕は夢の中でギャッと叫びました
石像は口がきけないけれどあまり の恐ろしさにギャッと叫んだの です そして眼を覚ますのがおきまり でした びっしょり脂汗を流していました だから僕は三晩とも夢の終りまで 見ていないのです 降りてくるのは僕でおしまいか どうかわかりません きっとそのあとにまだ誰かの恐ろしい 姿があるのです 一郎はそこまで言ってピッタリ 口を閉じ物狂わしくギラギラ光る 眼で家族の人たちを見まわした 誰も物を言わなかった あまりの無気味さにおてんばの 鞠子でさえ悲鳴を上げることを 忘れたようにポカンと口をあけ て青ざめた顔の中におびえきった 眼を大きく見ひらいているばかり であった 夫人も綾子も白蝋のように青ざ めていた 主人も妙な顔をして物忘れでも したようにぼんやりしていた 気のせいか天井の電燈がひどく 薄暗くなっていた 一同が眼を見かわしているとお 互いの眼の中に恐怖の青い焔が チロチロと燃えているように感じ られた 怖い夢を見たんだね 三晩もかい 前兆だよ 何か恐ろしいことが起こる前ぶれ だよ 祖母が念仏でも唱えるように歯 のない口の中でブツブツ呟くの が異様に薄気味わるく聞こえた でも夢だけなれば僕はそれほど に思わないのですがもっと変な ことがあるんです 僕はこのうちに眼に見えない魂 みたいなものが忍び込んでいるん じゃないかと思うんです そいつがいろんなことをするんです 今に僕たちをみなごろしにするん じゃないかと思うとゾーッとしないで はいられません 何者かがこのうちの中をうろつき 廻っている証拠には僕の部屋に 変なことが起こったのです そこまで聞くと綾子の眼の色がお びえたようになって美しい唇から
かすかな声が漏れた あらっ一郎さんのお部屋にも 姉と弟とは今の先スクリーンの上で 恐ろしくくずれたあの顔を見合わせて ギョッとしたようにお互いの眼 の中を覗き合った じゃあお姉さまの部屋にもかい 僕の部屋ではホラあのベートーヴェン のデスマスクねあれが壁の上を 独りで歩きまわるんだよ ずっと右側の壁にかけてあった のが朝部屋にはいってみると左側 の壁にかかっているんだ 元の場所へ直しておくと又その 翌日は反対側へ移っているんだ 誰に聞いても知らないっていうん だよ 第一僕は部屋へ誰もはいらせない 癖だろう 夜寝る時にはちゃんとドアに鍵 を掛けておくんだ それにそんな妙なことが起こるん だからね それだけならまだいいんだよ けさそのデスマスクを見るとね こちらの眼に と彼は自分の右の眼を指し示して ポッカリと黒い穴があいているん だよ 人々はさいぜんの映画の恐怖を 思い起こして背筋が寒くなった あの映画でも一郎の美しい右の眼 にゾーッとするような異変が起こった ではないか あたしの部屋では机の引出しが いつもあべこべに差してあるの よ 右の引出しが左に左の引出しが 右に別に中のものはなくならない の 鞠ちゃんのいたずらかと思った けれど聞いてみるとそうじゃない というしほかの人も誰も知らない っていうのよ あたし一郎さんのように気になんか していなかったのだけれどあなた の部屋もそうだっていうとおかしい わね お父さまこれでも僕の読書のせい だっておっしゃるのですか なるほど それは妙だね お前たちの思い違いじゃないの かい
自分で物の位置を変えておいて ヒョッと胴忘れしてしまうという ようなこともあるもんだよ 化物屋敷じゃあるまいし独りで 物が動くなんてばかなことがある もんか ハハハハハ 主人はわざと気軽に笑ってみせ たが誰もそれに応じてえがおを見 せるものはなかった 人々の顔は前にもまして青ざめて 行くように見えた むろん独りで動くはずはありません 誰かが動かすのです 眼に見えないやつがこのうちの中 を勝手に歩きまわっているのです 僕はなんだかすぐそばにそいつ がいるような気がするんです こうして話しているのをどっか その辺でニヤニヤ笑いながら聞 いているのじゃないかと思うの です 一郎はそう言いながら脅えたように ガラス窓のそとの闇の中を見つ めた すると人々はその闇の木立の中に 朦朧と黒い人影が現われて室内 の様子を窺っているような気さえ するのであった 悪魔の声 名探偵明智小五郎は書斎の肘掛 椅子にグッタリともたれこんで 無闇に煙草を吹かしながら考え ごとにふけっていた あたりには煙草の煙が朦々と立ち こめて部屋じゅうが靄に包まれている ように見えた 伊志田屋敷で無気味な映画事件 があった翌々日の夕方のことである 煙の中の明智の頭には今あの古城 のような赤煉瓦の建物が浮かん でいた その奇妙な建物を背景にして女 のように美しい青年の顔が二重 写しになって頬笑んでいた その前日名探偵は美青年伊志田 一郎の突然の訪問を受けたのであった そして古城の中に起こった奇妙な 出来事と一郎の恐ろしい夢の話を 聞いたのであった 明智はこの美青年に不思議な興味 を感じていた その顔が異様に美しいためばかり ではない
今の世に珍しいその性格に惹き つけられたのだ 彼は肉体から遊離した心霊の存在 を語った そして呪詛とか前兆とかいうもの を心の底から信じているように みえた 僕は怖いのです 誰かにすがりたいのです 父は唯物論者ですから僕のいう ことなど取り上げてくれません 僕はふと先生のことを思い出した のです これは犯罪ではないかもしれません しかし少なくとも僕の家族の生命 に関する事件なのです 何かしら恐ろしいことが起こる に違いないのです 美青年は応接室のアームチェア に腰を浮かすようにして物に憑 かれた眼で明智を見つめながら 真剣な調子で名探偵の判断を乞 うた 不思議な青年だ 胸の中に冷たい美しい焔が燃えて いる感じだ その焔が瞳に写ってあんなに美しく かがやいているのだ 明智はその時の青年の異様に熱 心な表情を思い浮かべて心の中に 呟いた 私は君の恐怖を取り止めもない ものなどと言わない 何かあるのかもしれない しかしただそれだけの出来事では まだ私がどうかする時期でない ように思う このまま何事もなくすんでしま えばいいしもしさらに何か妙な ことが起こるようだったらすぐ 報告してください その報告によって私の考えをき めることにしよう 結局明智はそういう意味の答え をして青年を帰したのであった それからついさきほどまでほかの 事件の処理に追われて青年のこ とは忘れるともなく忘れていた のだが仕事が一段落してアーム チェアにもたれこみ煙草と放心の 一と時を楽しむうちなぜか明智 の頭の中に美青年の姿とその言葉 と彼の住んでいる古城のような 建物とが異様に鮮明に浮き上が ってきたのである
探偵はわけのわからぬ不安を感じ た 妙な胸騒ぎをおぼえた あの美しい青年の上がなぜかひ どく気遣われた 変だぞ こんな気持は久しく経験しなかった が 明智がそんなことを心に呟いて また煙草の煙を深く吸い込んだ 時であった 突然卓上電話がけたたましく鳴り 響いた 彼はその音を聞くや否やああやっぱり そうだったか というような感じがした 彼にも似げなくギョッとしたのだ 急いで受話器を耳に当てると先 方は予感の通り伊志田一郎であった 先生ですか いま父も母も皆不在なのです 僕は父の書斎に一人ぼっちで留守番 しているのです 先生聞こえますか もっと声を低くします あいつに聞こえるといけないから です えっあいつって誰かそこにいるん ですか 明智が聞き返しても先方は構わず 話しつづける 例によって物に憑かれた調子だ 廊下にかすかな足音がしたのです 女中などとは違います まだ見たこともないあいつの足音 です 確かにあいつです 先生っ早くきてください 僕を助けてください 僕はもうからだがしびれたよう になって身動きができないのです 卓上電話の受話器をはずすのがや っとでした あああいつの息の音が聞こえます ドアの鍵穴から覗いているのです 先生もっと声を低くしますよ そして先生の声はほんとうの囁き に変った あいけない もうだめです 先生早く早くきてください ドアがひらきはじめました 少しずつ少しずつひらいている のです しばらく無言がつづく
あやっぱりそうです あいつです あいつがはいってきました 手に短刀を持っています 先生先生 そこで言葉が途切れてしまった が今駈けつけたところで間に合う はずはないのでなお受話器を耳に つけてどんな物音も聞き逃がすまい と注意を集めていると何か物の 擦れ合う音が聞こえてきた 青年が誰かと組み合ってでもいる 様子だ 烈しい息遣いさえかすかに聞こえる 手に汗を握って聞いている身には 非常に長い時間に感じられたが その無言の格闘はおそらく五分 とはかからなかったであろう やがて受話器からなんともいえ ぬ悲痛な呻き声が耳をつんざく ように響いてきた 一郎の声だ あの美青年の声に違いない 明智は心臓をしめつけられるような 気がした 青年は救いを求めたのだ その声をまざまざと聞きながら 助けてやることができなかった のだ 確かに深傷を負っている もしかしたら一命を失ったかもしれない あの美しい顔はもう二度とほほ えむことがないかもしれない だがその時であった 放心したように握ったままの受話器 から妙なしゃがれ声が聞こえて きた ハッとして耳を当てると電話の向こう で確かに誰かがしゃべっている ついさいぜんまで一郎青年が救 いを求めていたその同じ電話で 何者かがしゃべっている お前は明智だね ウフフフフフ間に合わなくて気の 毒だったねえ オイ明智よくこの声を聞いておく がいい わかるかいこの声が ウフフフフフ 悪魔の声だ 一郎を殺害した犯人の声だ 犯人が名探偵を嘲笑しているのだ だがそれはなんという不思議な 音調であったろう
男とも女とも老人とも若者とも まったく見当のつかぬ調子はずれ の声であった まるで九官鳥が人声をまねしている ような妙に間の抜けた感じなのだ おいそこにいるのは誰だ 何が起こったのだ 探偵はむだとは知りながらも送 話口にどなってみないではいられ なかった しかしむろん返事のあろうはず はない 犯人は言うだけのことを言って おいてその場を立ち去ってしまった のであろう いくら耳をすましても再び人の 声は聞こえなかった ぐずぐずしている場合ではない 何はともあれ現場へ行ってみな ければならぬ 明智は急いで身支度をすると助手 の小林少年を呼んで自動車を命 じさせるのであった r町の探偵事務所からk町の伊志田 屋敷までは自動車で十分とかから ぬ近距離であった 伊志田屋敷の苔むした煉瓦塀の 門前で車を降りて玄関に駈けつけ 呼鈴を押すと二十歳あまりの学生服 を着た青年がドアをひらいてノ ッソリと顔を出した 何事も知らぬ様子である 明智はその青年がこの家の書生 であることを確かめた上名を名 乗って一郎青年に会いたいと告 げると書生はそのまま奥へはい っていったが間もなく顔色を変 えて飛び出してきた た大変です 一郎さんは大怪我をして倒れて いらっしゃいます 早く早くきてください 書生は明智の腕をとらんばかり にして奥へ案内する 主人をはじめ家族が不在なので 初対面とはいえ折よく来合わせ た探偵にすがるほか分別もない のであろう 君はうちにいてその騒ぎを少し も知らなかったのですか 廊下を急ぎながら明智が訊ねる と書生は申しわけないという表情 で 実はちょっと外出していました ので
いま帰ったところなのです 何がなんだかさっぱりわけがわ かりません 女中さんは 女中はいるはずです それに御隠居さまもいらっしゃ るのですが一郎さんの部屋とは ずっと離れていますのでまだお 気づきになっていないのでしょう ちょっとお知らせして参ります いやそれはあとにした方がいい でしょう 怪我人の介抱が第一だ せかせかと話し合いながら薄暗い 階段を上がって二階の廊下を少し 行くとそこが主人の書斎であった 一郎はその父の書斎で兇漢に襲 われたのである 書生を先に書斎へはいってみる と夕暮れどきの上に窓の少ない 古風な建物なので部屋の中は非常 に薄暗かったがその床に倒れている 人の姿はたちまち眼にはいった 薄闇の中に一郎のあの美しい顔が 血に染まって浮き上がって見え 肩から胸にかけて手傷を受けた らしくその辺を血まみれにして 身をくねらせて横たわっていた 予感はむごたらしくも的中した のだ 恐ろしき前兆は今やそのまま現実 となって現われたのだ だが美青年伊志田一郎はすでに 息絶えたのであろうか 妖魔はその第一の犠牲者を完全に 屠り去ったのであろうか 明智と書生は部屋に一歩踏み込んだ まま薄闇の中の血の色の生々しさ に犠牲者に駈けよることも忘れて しばらくは茫然とその無残な光 景を打ち眺めるばかりであった 人間コウモリ 一郎さんしっかりしてください 書生が近づいて大声にどなっても 美青年は身動きさえしなかった 明智はそのそばにひざまずいて 一郎の呼吸と脈搏を調べた かすかに脈がある 大丈夫だ 君すぐ電話をかけて医者を呼ぶん だ あその卓上電話を使っちゃいけない 犯人の指紋が残っているかもしれない のだ ほかに電話があるんだろう
明智の注意深い指図に書生はアタ フタと廊下へ出て行った 階段を駈け降りる音が聞こえて くる 電話室は階下にあるのだ あとには広い書斎に瀕死の負傷 者と明智探偵とただ二人であった 夕闇は刻々に夜の色を加えて部屋の 隅々はもう見分けられぬほどとなり 負傷者の美しい顔を彩った血の色 が墨でも塗ったようにドス黒く 見えてきた 一郎は眼をやられていた 右の眼であった 映画の前兆はそのまま実現した のだ 右の眼から頬にかけておびただ しい血潮が溢れていた しかし負傷はむろん眼だけでは なかった 胸を刺されたらしくまっ赤なワイシャツ を着ているのではないかと疑われる ばかりであった ジュウタンにもドス黒い大きな 斑点ができていた 無気味な生人形のように微動も しない負傷者を眺めているとなんだか 妙な感じがした 負傷者ばかりでなく夕闇の鼠色 に塗りこめられた広い部屋全体 が生命を失ったように寂然と静 まり返っていた 窓は一か所半開になっていたけ れど部屋の空気は少しも動いて いなかった まったく風のない日であった 明智探偵は負傷者のそばにひざ まずいたまましかし眼は凝然と 部屋の一方の隅を見つめていた 何かしらそこを見ないではいられない ような不思議な感じがあったのだ そこにかすかに揺れているもの があった まったく風のない夕闇の室内に そよぐように揺れ動いているもの があった 壁の書棚と書棚のあいだに何か 物を入れる押入れのような箇所 があってその前に垂れた鼠色の カーテンがかすかに動いている のだ むろん風ではない カーテンの蔭に何か生きものがいる のだ この家には猫が飼ってあるのかしら
いやそんな小さな動物ではない もっと大きいものだ おそらくはそこに人間が隠れている のだ 明智はさいぜん自宅で聞いた電話 の声を思い出していた 男とも女とも老人とも若者とも 判じがたい無気味なしわがれ声 であった 犯人なのだ 一郎を刺した殺人者なのだ あいつがカーテンの蔭に身を潜 めているのではないか 明智はそのものに向かって何か 言葉をかけようとしたが思いとど まった それではこちらの負けになってしまう だまっている方がいい だまって相手の出ようを見守っている 方がいい 夕闇の中に息づまるような烈しい 無言の闘争がつづいた 互いにそれを知っていたのだ そして脂汗を流しながらだまり 返っていたのだ 明智は武器を持たなかった 相手は少なくとも一とふりの短 刀を持っているはずだ 探偵のがわには一段の精神力が必要 であった 睨み合いは結局犯人の負けであった それほど明智探偵は落ちつきを 失わなかったのだ 犯人はおそらくただ凝然と見つ められている無気味さに堪えられ なくなったのであろう カーテンがひときわ烈しく揺れ はじめた そしてその蔭からサッと黒いもの が姿を現わし風のようにドアに向かって 走った それは巨大なコウモリのようなもの であった とっさには見分けることができ なかったがあとで考えてみると その怪物は頭部全体に黒布を巻き つけ両眼の部分だけに小さな二つの 穴をあけていた ダブダブのインバネスのようなもの で全身を包んでいた その裾がすっかり足を隠していた のを見ると人並よりは背の低い やつのように思われたがもしか したら足を曲げてわざと低く見せ ているのかもしれなかった
それが背中を丸くしてサッと走 って行くうしろ姿になんともいえ ぬ醜怪な兇悪なものが感じられた 黒いインバネスの両袖は翅のように ひるがえってちょうどコウモリ そっくりのいやらしい姿であった その大コウモリの翅の中に血に 濡れた短刀が隠されていることは わかっていたが明智探偵は少し も躊躇しなかった ただちにあとを追って走り出した ガランとした薄暗い廊下怪物は 表階段を降りないで奥の方へ走 って行く 猫のように足音を立てない走り方 だ まるでコウモリが宙を羽搏いている ような感じだ 出発の時に追うものと追われるもの のあいだに五六間のひらきがあった それが怪物が廊下の突き当たり の狭い裏階段を駈け降りるころ には二三間に縮められていた 大コウモリは裏階段を一とすべり に駈け降りて階下の廊下をさらに 奥へ奥へと走った 少し行くと廊下が鉤の手になって いた 怪物はその角を曲がりながら背 を丸めてヒョイとこちらを振り返 った 黒布の二つの切れ目が薄闇の中に キラリと光った その眼が気のせいか意味ありげ に薄笑っているように見えた 待てっ 明智探偵がはじめて声をかけた 相手を射すくめるような烈しい 気合いのこもった一と声であった だが怪物はひるまなかった 妙な恰好でお辞儀でもするような 仕草をしたかと思うとそのまま 曲がり角の向こうに姿を消してしまった いうまでもなく明智はただちに あとを追って同じ角を曲がった 見ると鉤の手廊下はそこが行き 止まりになっていた だが曲者はわずか数秒おくれた ばかりなのにもうそこには人の 影さえなかったではないか 廊下の左側に窓があってそのそ とは庭園の木立であった 明智は窓に駈け寄った ガラス戸は閉まっていた
それを引きあけてもう暮れきった 庭園を見渡したが怪物の姿はどこ にもなかった 蒸発してしまったのだ 幽霊のように消え失せてしまった のだ さすがの明智もややうろたえて キョロキョロとあたりを見まわ した 窓のほかにはどこにも逃げ道はない のだ しかし廊下の右側にただ一つドア がある 誰かの部屋らしい 探偵はいきなり把手をひねって そのドアをひらいた 覗き込むと薄暗い部屋はシーン と静まり返っている 狭い控えの間があってその奥に 広い部屋があるらしい 踏み込んで控えの間と奥との境 のカーテンを引きあけた おやどなたですね とがめるようなしわがれ声が聞こ えてきた よく見るとそこは畳敷きの日本 間になっていて向こうの窓寄り に蒲団が敷いてあった その蒲団の中にモグモグと動いている ものがある 皺くちゃのお婆さんであった あ失礼しました 今ここへ誰か逃げ込んできませんでした か 黒い覆面をしてインバネスを着 たやつです 明智がドギマギして訊ねると老人 は寝間着姿で床の上に起き上がって あきれたようにこちらを見つめた いいえ誰もはいってきませんが あなたいったいどなたですね それは一郎の祖母であった 老年のこととて昼間も蒲団の中 にはいってうたた寝をしていた のであろう 明智は名を名乗って簡単に挨拶 するとスイッチのありかを訊ね て天井の電燈をつけた だがパッと明かるくなった部屋 の中には別段怪しむべき点もなかった そこには二た棹の箪笥と小机と 鏡台が置いてあるばかり人の隠れる 場所とてもない 老人の許しを受けて座敷に上がり 押入れをひらいてみたがそこにも
別状はなかった 部屋の窓のそとには庭園が見えて いたがそのガラス戸もぴったり 閉めてあった いくらうたた寝をしていたとい ってもその窓が開閉されたとすれば 老人が気づかぬはずはない そうしているところへ騒ぎを知って 書生や女中が駈けつけてきたの でさらに手分けをして屋内屋外 を調べてみたが結局大コウモリ の行方はまったく不明であった 庭にもなんの足跡も残っていなかった 写真の怪 それから二時間ほど後危うく一 命をとりとめた一郎は医師の手当て を受けて寝室のベッドの上に横 たわり明智の知らせによって駈 けつけた警視庁捜査課長北森氏 の取調べを受けていた 人を遠ざけて室内には一郎と捜査 課長と明智探偵の三人だけであった 主人の伊志田氏夫妻や一郎の姉妹 たちももう帰宅していたが医師 の手当てがすむと別室にしりぞ いたのである 一郎の負傷は思ったよりも軽かった 胸部の傷は短刀が肋骨の上をすべ ったものと見えて肺臓には達して いなかったし右の眼も瞼の下に 裂傷を負ったばかりで眼球その ものには別状なく危うく失明を まぬがれていた 出血は可なりひどかったけれど 輸血を要するほどではなかった どうです 話ができますか 苦しくはありませんか 苦しければもっとあとにしても いいのですよ 北森捜査課長はいたわるように 言いながらベッドの負傷者を覗き 込んだ 大丈夫です 大変楽になりました 少しくらいお話しできそうです 一郎は低い声ではあったが案外し っかりした口調で答えた 胸部は繃帯にふくれ上がり頭部 から右の眼にかけても厚ぼった く繃帯が巻きつけてあった 苦しいでしょうけれどこれは捜査 上どうしてもお聞きしなければ ならないのです なるべく正確に答えてください
あなたは犯人を知っていますか わかりません 僕は犯人の顔を見なかったのです 覆面をしていたのですね しかし声だとかからだの恰好だと かに何か心当たりはなかったですか 少しも心当たりがありません まったく聞いたこともない声でした 誰かに恨みを受けているような ことはないのですか 少しでも疑わしい人物はないの ですか ありません 僕はなぜこんな目に遭ったのか まるで見当もつかないのです そうですかそれで犯人は不意に 書斎へはいってきたのですね ええまったく不意でした もっとも僕はなんだか恐ろしい 予感がしていたのです すると廊下を聞き覚えのない足 音が近づいてきたのです それで明智さんにあんな電話を かけたのです 犯人は口をききましたか なぜあなたを殺そうとするのか そのわけを言わなかったですか 何も言いません 一と口も物を言わないでいきなり 短刀で突きかかってきたのです あなたは防ぎましたか ええ死にもの狂いで防ぎました しかしとてもかなわなかったの です 僕はあまりの恐ろしさに力も抜け てしまったようになって なぜそんなに恐ろしかったのです あいつの姿が怖かったのです 黒い覆面の中から覗いている二つの 眼が無性に恐ろしかったのです それに僕の眼です 組み合っているうちにあいつの 短刀の先が僕の右の眼ばかり狙 っていることを知ってゾーッと したのです そんなに眼ばかり狙ったのですか ええこの右の眼をグイグイと突 いてくるのです 私は力の限り防ぎましたがあい つの力が少し強くて短刀の先が ジリジリと私の眼に迫ってきました 僕はあんな怖い思いをしたことは ありません ほかの場所ならそれほどでもない のでしょうが眼ですからねほんとう
に心臓が止まるような気持でした そしてとうとう突かれたのです でもあいつの狙いが狂ったのか 僕が顔をそむけたためか幸い眼球 を傷つけられないですみました が僕がアッと声を立てて眼をお さえたものですから目的を達した と思ったのでしょうねしわがれ 声でさも嬉しそうにウフウフ笑い ながら今度はとどめを刺すように 胸をついてきたのです 僕は眼をふさいでいたので何が なんだかわかりませんでしたが 胸にはげしい痛みを感じるとああ もうだめだと思いました そしてそのまま気を失ってしまった のです 語り終って一郎は疲れたように グッタリと眼をふさいだ 繃帯のあいだから見えている半 面が発熱のためにポッと赤らん で閉じた眼の長い睫毛がかすかに 震えている 明智探偵はその美しい顔にじっと 眼を注いでいた 何かしら吸い込まれるように瞬 きもせず見つめていた 北森氏も腕組みしたまま物を言 わなかった こいつは難事件だぞと言わぬばかり に唇を噛んで瞑目していた 明智先生僕の予感が当たったの です あれはたしかに前兆だったのです あいつはやっぱり私の眼を狙い ました 右の眼を狙いました 映画の通りでした 私のいつかの夢とそっくりでした 一郎が静かな調子で独り言のように 言いながらパッチリと左の眼を ひらいた そして痛々しそうに頷いてみせる 明智の顔をじっと見ていたがふと 視線をそのうしろの壁に注いだ すると彼はビックリしたように 二三度烈しく瞬いたがそのまま 視線が釘づけになってしまった 力なくうるんでいた眼が異様な 輝きを放ちみるみる大きく見ひら かれて行った あれあれはなんでしょう おびえた声で言いながらその壁 の上部を指さした
捜査課長と探偵とは思わずうしろ を振り返った その壁には小型の額がかかって いた 額の中に一郎の美しい顔が笑って いる引伸ばし写真であった だがおおこれはどうしたという のだ その美しい写真の顔の右の眼から まっ赤な液体が流れ出している ではないか 電燈の光をギラギラ反射しながら 今傷つけられたばかりのように タラタラと頬を流れ落ちている ではないか 死物の写真が血を流すはずはない しかし血はまさしく流れている のだ 生々しい液体が糸を引いてした たり落ちているのだ おお血です 右の眼から血が流れている あいつだ あいつが失敗を悟ってもう一度 こんな眼にあわせてやるぞと僕に 知らせているのです 一郎はベッドの上に半身を起こ して悲鳴のような叫び声を立て た その叫び声のなんともいえぬ恐ろ しさに明智も北森警部も思わず ゾッとして顔を見合わせたほど であった 明智はいきなりその写真の前に 近づいて眼の下に流れている血 潮に指を触れてみた 血じゃない 赤い絵の具だ だがいつの間にこんないたずら をしたのだろう 悪魔は透き通った気体のような からだを持っていたのであろうか いつの間にこの部屋に忍び込み こんなお芝居気たっぷりないた ずらをしたのだろう 絵の具はまだ乾きもやらずタラ タラと写真の上に糸を引いて流 れていたのだ えたいの知れぬ犯人のこの傍若 無人の振舞いにはさすがの名探偵 も捜査課長も度胆を抜かれたように 顔見合わすばかりであった 再び大がかりな家探しがはじま った
天井から縁の下から庭園の樹木 の茂みまで残るところなく捜索 されたがやはり怪しい人影はどこ にも発見されなかった 妖雲 犯人は一郎青年を傷つけたばかり で満足するものでないことはよ くわかっていた もう一度ほんとうに眼をえぐり たいのだ 心臓を刺して息の根を止めたい のだ 孤独を愛する奇人伊志田氏もこの 恐怖には抗しかねたとみえ邸内 には俄かに屈強な書生の数がふ えた 一人であった書生が五人に増した 腕に覚えの猛者どもが狩り集め られたのだ その中には北森課長が推薦した 刑事上がりの壮年者も二人まで まじっていた 三日間が何事もなく経過した さすがに怪物も厳重な警戒にお びえたのかついに姿を現わさなかった その四日目の夜のことである 一郎青年の病室にはただ一人ロイド 眼がねと三角に刈り込んだ顎ひげ の目立つ医師が負傷者の見とり をしていた ウフフフフどう考えてもおかしい ですよ 僕はまさかあなたにこんな看病 をしていただこうとは夢にも思い ませんでした ベッドに横たわった一郎青年は 傷の経過もわるくないと見えて 元気な様子でクスクス笑いながら ロイド目がねの医師を見上げる のであった 僕だってこんなまねははじめて だよ 変装というようなことは好きじゃない のだが君があんなに頼むものだから つい負けてしまったんだよ 医師もにこやかに笑って青年の 美しい顔を覗きこむようにした でも僕は安心ですよ 先生がいつも僕のそばについて いてくださるんですもの もうあいつがきたって平気ですよ 三角ひげの医師は名探偵明智小五郎 の変装姿であった 一郎青年と主人伊志田氏とのた っての頼みを拒みかね主治医の
友人というふれ込みで有本医師 と名乗って一郎の看病と護衛のために 当分邸内に泊まり込むことになった のである その秘密を知っているのは当の 一郎青年と伊志田氏と主治医の 三人だけで他の家族や召使いたち は明智をほんとうの医師と思い こんでいた 明智は変装嫌いではあったが決 して変装下手ではなかったからだ 明智は負傷者一郎青年に異様に 惹きつけられていた 最初彼が探偵事務所を訪ねてきた 時からそのたぐい稀なる美貌と 陰火のような押し殺された情熱 が探偵の心を打った 嫌いな変装までして伊志田邸に 泊まり込むことになったのもこの 美青年の不思議な牽引力による ものであった しかし探偵がこの異例な挙に出 でたのはただそれのみのためでは なかった 彼は風変りな伊志田家そのもの に妙な興味を抱いていた この古風な西洋館の中には何かしら 廃頽的なまがまがしい匂いが満ち ていた 犯罪は外部からではなくむしろ 内部から発生しそうな一つの別 世界が感じられた 一郎君だいぶ気分がよさそうだね 少し質問してもさしつかえない かね 明智の有本医師は改まった調子 になってやさしく訊ねた ええ僕も先生に聞いてほしいことが あるんです お訊ねになりたいというのはもし や僕の家庭のことではありません か そうだよ僕はあの事件が起こった 時からそれを一度よく聞きたい と思っていたのだ じゃあ先生は今度のことは僕の 家庭の内部に何か原因があると でもお考えなのですか 美青年は異常にするどい神経を持 っているように見えた 話し相手の言おうとしていることを みな先廻りして言ってしまうような ところがあった 必ずしもそういうわけではない がね
しかし一応君のご両親や姉妹のこと を聞いておきたいのだ 明智は乗り出している負傷者の 背中へソッと毛布をかけてやった 僕の家庭を妙にお思いになるの でしょう こんな化物屋敷みたいな西洋館 に住んで皆が何もしないでブラ ブラ遊んでいるのですからね でも僕の父がどういう人だかは 世間の噂でご存知でしょう 人嫌いの変人なんです どのくらいあるのかよく知りません が僕らはお金持ちだと言われて います ですからこんなわがままな風変 りな生活もできるのですね 先生は僕らの親子兄妹の関係が どんなふうだかということをお 聞きになりたいのでしょう 父は僕の知っている限りでは僕ら 三人の兄妹のほんとうの父です しかし母は違うのです 僕なんかと似ていないでしょう 僕ら三人とも今のお母さまの子 ではないのです 僕たちのほんとうの母は八年前 になくなったのですよ で君たち三人の兄妹は皆その先 のお母さんの子なの そうです 僕の知っている限りではそうです しかし僕たち三人は顔も気質も 少しも似てないでしょう まるでみんな別々の母のお腹から 生れてきたようじゃありません か 一郎の口辺に嘲笑の影のようなもの が浮かんだ 何かそんな疑いでもあるの 別に何もありません でも父はそういうことはまるで 非常識なんです どんな秘密があるかしれたもの ではありません なくなったお母さんは気の毒な人 だったのです それで今のお母さんと君たちとは うまく行っているの ええ表向きは円満です しかしみんなの心の中はわかりません ほんとうは誰も彼も憎み合っている のかもしれません 僕たち兄妹だって決して仲がよく はないのです
先生こんな家庭ってあるでしょうか 上べはみな親しそうにしていて 腹の中では何を考えているかわからない のです まるで化物屋敷です 僕たちはみんな世間の人とは違う のです まったく別の生きものみたいな 気がします 先生僕の思っていること言って もいいでしょうか 先生僕怖いんです それを言うのが恐ろしいのです いいよ 言わなくてもいいよ そんなこと考えるもんじゃない 君はあんなことがあったので興奮 しているんだ ありもしない幻を描いているんだ 明智がなだめるように言うのを 一郎は押し切ってついにそのことに 触れてしまった あいつはほんとうに外部からや ってきたのでしょうか 先生もしかしたらあいつはこの 家の中に住んでいるのじゃない でしょうか 僕らのよく知っている誰かじゃない のでしょうか 半面を繃帯に包んだ美青年の顔が 恐ろしいほどまっ青になっていた 毛布の中から出ている華奢な手首 が熱病やみのようにブルブル震 えていた 探偵というものはそういうことも 一応は疑ってみなくてはならない 僕は今あらゆるものを疑っている 君の家庭内の人たちだって決して 例外ではないのだ しかし僕はまだ何も掴んでいない 安心したまえまさかそんなことはない だろうと思うよ 明智の有本医師は強いて鈍感を 装いながら一郎青年をなぐさめ ようとした ああやっぱりそうなんですね 先生も僕たち一家の誰かを疑って いらっしゃるのですね 誰です それはいったい誰です 一郎の顔は興奮のあまり泣き出し そうにゆがんで見えた ばかな 僕がいつそんなことを言った
取り越し苦労もいい加減にしたま えさあ一と眠りするんだそして もっと明かるい気持になるんだ 睡眠剤を上げようか 名探偵はまるで看護婦のように やさしかった 一郎の毛布の肩の辺に手を置いて 母親のように子守歌でも歌い出し そうな様子に見えた 有本医師の一挙一動には美しい 負傷者へのこまやかな愛情が満ち あふれていた 塔上の怪 しかし一郎は眠ろうとはしなかった 眠らないばかりか一そう大きな 眼を見ひらいて向こうのガラス 窓のそとを見つめていた 何か物に憑かれたようにいつまでも 同じところを見つめていた どうしたんだ 何をそんなに見ているの 明智もその方へ眼をやった 窓のそとにはただ夜の闇がある ばかりであった その闇の中に闇よりも黒い大入道 のようなものが聳えていた 伊志田屋敷の名物の円塔である 西洋の城郭にあるような煉瓦造り の円形の塔である 一郎の眼はどうやらその円塔の あたりに注がれているらしいのだ あれをごらんなさい 僕はゆうべもあれを見たのです なんだか恐ろしいのです 僕の幻覚じゃないでしょうか あれってなにどこを見ているの 塔の頂上の窓です じっと見ていてごらんなさい ほらあれです 先生あの光です 先生には見えませんか それは決して一郎の幻覚ではなかった 円塔の頂上の部屋の窓にボーッと 蛍火のような光が射している 室内の電燈がついたのではない 何かもっと小さな白っぽい光だ もしかしたらどこか外部からの 光がガラスに反射しているのではない かと考えたがそうではなくてや はり室内からの光らしい かすかに揺れている ね見えるでしょう さっきから光ったり消えたりしている のです ほら消えてしまった
きっと今にまた光りますよ 見ていると一秒もたたぬうちに 又ボーッと光り出した そして光っては消え消えては光り まるでその円塔の壁に巨大な蛍 がとまって息づいているような 感じであった 懐中電燈のようだね ええ僕もそう思うのです 二人は円塔から眼を離さず必要 以上に声を低めて囁きかわした 円塔の内部は久しく使用せず荒れる にまかせてあった その廃墟のような建物の中に何 者かが潜んでいるのだ 誰かがああして外部の者と秘密の 通信をしているのじゃないでしょうか ウンそうかもしれない このあいだ家捜しをした時には あの塔の中もむろん調べたのでしょう ね 調べたのだよ 別に異状はなかった 人の隠れているようなけはいは 少しもなかった しかし今は確かに人がいるのだ あいつかもしれない 黒覆面の中から眼ばかりを光らせ ているあの怪物かもしれない 待っていたまえソッと塔へ行って 調べてみよう 明智の有本医師はあわただしく 囁いて立ち上がり壁のベルのボタン を押した 先生大丈夫ですか 僕なんだか心配です 一郎青年はベッドの上に半ば起き 上がって青ざめた顔で名探偵を見 上げながら引き止めたいように 両手をさし出すのであった 心配しなくってもいい さあじっと寝ていたまえ 有本医師は青年の手を取って元 のように横にならせ毛布をかけて やった そこへベルを聞いて書生の一人 がはいってきた 北森捜査課長が世話をした刑事 上がりの男だ 君少しのあいだこの部屋にいて くれたまえ 僕が帰ってくるまで見張りを頼 む 油断をしないようにね
書生が頷くのを見て明智はもう 廊下へすべり出ていた そして円塔の方へと足音も立て ないで風のように走り出していた 円塔へは曲がりくねった廊下つづき になっていたが母屋を離れると にわかに廊下が狭くなり電燈も ついていないのでまるで穴蔵へ でもはいって行くような感じであった 塔に近づくにしたがって明智は 速度をゆるめ足音を忍ばせ油断 なく身構えしながら前方の闇の中 を見すかすようにして進んで行った 塔の入口のドアはひらいたまま になっていた ほとんど手探りでそこをはいり しばらく息を殺して様子を窺って いたが冷たい塔の内部は墓場のように 静まり返っている こういう時のために常に用意している 懐中電燈を取り出してチラッと そのあたりを照らしてみた 誰もいる様子はない 部屋の右手に埃のつもった頑丈 な木製の階段が見える 明智は懐中電燈を消して音を立て ぬように注意しながらその階段 を登って行った 円塔は三階造りになっていたの で同じような階段を二つ登らなければ ならなかった 第二の階段は呼吸さえ殺すように して一寸ずつ一寸ずつ虫の這う ように這い上がって行った そしてやっと階段の頂上にたどり つきソッと首を出して部屋の中 を覗いてみた そこはただ一面の暗闇であった 光もなく音もなく円塔全体が深い 地の底の穴蔵ででもあるように 感じられた 空気は土と黴との廃墟の匂いに 満ちて古沼のように淀んでいた 冒険に慣れた明智探偵にもこんな 経験は珍しかった そこには暗さのほかに何かえたい の知れぬ無気味なものがあった この世のほかの幽鬼とか怨霊と かいうようなものが闇の中の空気 を重苦しくし一種異様の匂いが ただよっていた 探偵は背筋を虫が這うような悪寒 をじっと我慢しながら闇の中を 見つめていたがやがて眼が慣れる につれて窓の輪郭がほんのりと
薄明かるく見分けられるようになった そしてそれと同時に土と黴の匂い の中に何かしらかすかな香気が ただよっているのが感じられた ヘリオトロープ それは美しい女性を連想させる ヘリオトロープの匂いであった この部屋には最近身に香料をつけた 女性がはいったとしか考えられ なかった いや最近ではない今現にその女性 はここにいるのかもしれない あの懐中電燈を点滅していた怪 人物は女性なのかもしれない 眼を凝らすと窓からのほの明かり を受けてその窓のそばに幽霊のような 白いものがスーッと突っ立って いた かすかに身動きしている おやっもしかしたらあれは洋装 の女性ではないのか と思ううちにほの白い影がやや 大きく身動きしたかと思うとその 胸のあたりからパッと光が湧いた その光が窓のガラスに反射して 室内がにわかに明かるくなった それは白衣の婦人であった 襞の多い白っぽい絹の洋装をした 若い女性であった 胸のあたりに手提げの懐中電燈 をかかげてその光線を窓のそと へ向けている 彼女が身動きするたびに強い光 がチロチロ動いて洋装の腕や胸の 辺をかすめ影絵のように若々しい 肉体の一部が透き通って見える こちらからはうしろ姿しか見えない のだがふと気がつくと窓ガラス に反射光を受けた彼女の半身が ぼんやりと映っていた そして明智探偵はそこに思わず アッと叫びそうになるほど意外 なものを見たのである 深夜円塔の階上にたたずむ白衣 の怪女性はほかならぬ伊志田綾子 であった 一郎青年の姉に当たる薔薇のように あでやかなあのお嬢さんであった もしそれが見知らぬ人物であった ならたとえかよわい女性であろう と明智は躊躇せず飛びかかって 行ったに違いない だが一郎の姉さんとわかっては 迂闊に手出しをするわけには行 かぬ
相手は伊志田家の一員なのだ 気づかれぬようソッと様子を見 届けるほかはない それにしてもうら若い女性の身 でこの無気味な場所へ深夜ただ 一人忍び込んでいったい何をしている のであろう さいぜんから長いあいだ手提げ 電燈を点滅しているのを見ると 誰か外部のものと光による秘密の 通信を取りかわしていたとしか 考えられない 塀を越えて通信しなければならない ので邸内では一ばん高いこの塔の 頂上の部屋を選んだのであろう ひょっとしたら外部でこの通信 を受け取っている相手というの が例の黒覆面の怪人物ではない のか 綾子はその怪人物にあやつられて 邸内の様子を内通しているのでは あるまいか だがもしそうだとするとこの美しい お嬢さんは実の弟を殺害しよう とした犯人の相棒を勤めている わけではないか そんな恐ろしいことがいったい この世にありうるのだろうか 手提げ電燈の合図は今のが最後 だったとみえて部屋は再び明かる くならなかった そしてその暗闇の中に網膜の残像 ででもあるように異常にクッキリ と浮き上がって見える白衣の女性 はもう帰るのであろう宙をただ ようように足音もなくこちらへ 近づいてくる様子だ 明智は気づかれては大変と大急ぎ で階段を這い降りて二階の部屋 の片隅に身を潜めた 白衣の人はたびたびここに出入り しているのか闇の階段を踏みはず しもせず静かに降りてきた かすかな絹ずれの音ほのかなヘリオトロープ の匂いそして息を殺す明智の眼 の前を白い靄のようなものがスー ッと通りすぎたのだがその時まるで 胸の底から絞り出すようなハー ッ という深い溜め息が聞こえたの である 明智はそれを聞くと背筋に水を あびせられたようにゾーッとしないで はいられなかった
地獄の底から響いてくる幽鬼の 歎息かと疑われるばかり引き入れ られるように陰気な溜め息であった 想像にたがわずこの異様な西洋館 には妖気がこもっているのだ その妖気が一つに凝りかたまって 白衣の女性の姿となって円塔の 闇の中をさまよっているのではない かと怪しまれた 明智はしかし気を取りなおして 忍び足に綾子の異様な姿を追った 白衣の人は塔を出ると夢遊病者の ような放心状態で暗い廊下をた どり明かるい母屋へと近づいて 行く 明智は彼女がまぶしい電燈の光 の中へ現われるのを見た そしてそれがやっぱり一郎の姉 綾子に違いないことを確かめた 綾子は母屋の廊下へ一歩踏み込む とにわかに正気づいたように敏捷 になった 彼女は追われるけだもののような 素早さでキョロキョロとあたり を見まわし廊下に人のいないことを 確かめた上サーッと白い風のように 走って向こうの曲がり角に消えて しまった 急いであとを追ってその曲がり角 からソッと覗いて見ると廊下には もう人影もなくてその中ほどの ドアが音もなく閉められている ところであった 白衣の人はそのドアの中に姿を 消したのに違いない あとでわかったのだがそこはほ かならぬ綾子の寝室の入口であった 美しき嫌疑者 一郎青年は犯人はこの家の中にいる かもしれないという恐ろしい疑い を明智に漏らした 明智もまたひそかにそういうことを 想像しないではなかった この奇怪な邸内に住む変り者の 富豪の一族には何かしら無気味 な秘密があった 家族のものがお互い同士で疑い 合っているような異様に気づまり な空気がただよっていた まさか綾子が実の弟の一郎を傷 つけた殺人鬼だとは考えられない だが男さえ薄気味わるく思う円 塔に深夜ただ一人登ってあんな 妙なことをしていたのをみると 彼女は何かしら事件に関係を持
っているらしく思われる もしかしたら共犯者ではないのか あの黒覆面の怪人物の相棒ではない のか 明智は彼女が自分の寝室へはいる のを見届けた上その足で二階の 主人伊志田氏の部屋を訪ねた 相手は若い娘さんなのだから明智 自身が直接詰問するよりはお父さん に話しておだやかに訊ねてもらう 方が穏当でもあり有効でもあると 考えたからだ 主人はまだ起きていてパジャマ の上にナイトガウンを羽織って 明智を書斎に通した 一郎が怪物のために傷つけられた あの書斎である 伊志田氏はそこを平気で使用している のだ 明智が綾子の異様な行動を詳しく 報告するとさすがに伊志田氏も 顔色を変えてすぐ呼び鈴を押して 書生に綾子を呼んでくるように と命じた しばらくするとドアが静かにひらいて あの白い洋装のままの綾子がはい ってきた あでやかな顔が少しひきしまって 心持ち青ざめているほかには少し も取り乱した様子がない この夜ふけになんの用事かとけ げんらしい表情さえ浮かべている 明智はそれを見てまだうら若い 綾子の名優ぶりに感嘆しないで はいられなかった 彼女はほのかなヘリオトロープ の匂いを発散させながら父のデスク のそばに近づくとそこに立っている 有本医師に軽く頭を下げて会釈 した 伊志田氏と一郎青年のほかは有 本医師が明智小五郎であることを 誰もまだ知らなかったのだ そこへお掛け お前いま塔の中へはいっていた そうじゃないか この夜ふけにあんな所でいったい 何をしていたんだね 伊志田氏はいきなりそれを訊ねた 彼は娘の行動を深くも疑わずわけ もなくその理由を説明して明智 探偵の疑念をはらしてくれるもの と信じこんでいる様子であった 綾子はそれを聞くとチラッと有 本医師を眺めた
さてはこの人があれを見ていた のかととっさに察して彼がただ の医師でないことを疑った様子 である だが彼女は別にうろたえることも なくごく自然な驚きの表情を示 してぬけぬけと嘘をついた えっ塔の中へまあいやですわお 父さま あたしあんな気味のわるい所昼間 だってはいってみたことさえありません わ どうしてそんなことをお聞きになる の 実に名優である それにこの娘は父に対してなんだか 妙によそよそしい口のききかた をするではないか 綾子嘘ではないだろうね まさかお父さんにこの方の前で 恥をかかせるのではあるまいね お前は知るまいけれどこの有本 先生は実は素人探偵の明智小五郎 さんなのだ わしと一郎とでお願いしてうちの 警戒に当たっていただいている のだ それを聞くと綾子の美しい眼が 何かギョッとしたようにすばやく 明智を盗み見た ヘリオトロープの匂いが一そう 強く明智の鼻孔を刺戟した 綾子この明智さんがお前が塔で 妙なことをしているのをごらん になったのだよ わしは明智さんの前でお前の弁明 を聞かなければならない こういう際だからつまらないまね をするとどんな疑いを受けるかし れないのだよ さあわけを話してごらん 綾子は聞いているうちにだんだん 青ざめて行った 心の騒ぎをそとに現わすまいと 一所懸命になっている様子が痛々 しいほどであった だが彼女は結局その闘争に打ち 勝った あくまでしらを切ろうとしている のだ まああたしが塔の中でそれを有 本先生がごらんになったのですって 妙ですわねえ あたしちっとも覚えがありません 塔なんかへ近づきもしませんわ
有本先生いいえ明智先生ほんとう にあたしをごらんになりました の 彼女はまた元の名優に立ち帰って 大胆にも名探偵に挑戦するかの ような態度をとった 見たのです まことに不作法なことですが職務 上いたしかたがなかったのです 僕はあなたが塔の三階でなすって いたことを闇の中からすっかり 見てしまったのです まあ三階であたし何をしていました の 手提げ電燈をつけたり消したり して窓のそとの誰かへ通信をして いらっしたのです まあ思いもよらないことですわ あたし今晩はずっとお部屋で本 を読んでいてどこへも出ませんでした 何かの間違いですわ 明智先生誰かほかの人とお見違 えなすったのじゃありません いいえ僕はハッキリあなたの姿 を見たのです 服装もその通りでした そしてその人は塔を出てから確かに あなたの部屋へはいって行った のです まああたしの部屋へ 綾子はゾーッとしたようにソッと うしろを見て恐怖に耐えぬ様子 をした でもあたしの部屋へは誰もはい ってきませんでしたしあたしは 本をよんでいたのですから何か の間違いですわ そんなことがあるわけがありません わ あなたがそれほどにおっしゃる のでしたら僕の見違いだったかもし れません しかしこの家にあなたと同じ服装 をした同じ背恰好のしかも顔まで 同じ人がほかにいるとも思えません しまた僕が起きながら夢を見て いたとも考えられませんからね 明智はおだやかに反駁した まああたしとそっくりの人なんて あたしはほんとうに覚えがない のですからもしかしたらあたし と同じ服装をした幽霊みたいな ものがうちの中をさまよっていた のじゃないでしょうか
綾子が青ざめた顔でオズオズと ささやくようにそれを言った時には 二人のおとなもつい誘いこまれて ふと怪談めいた恐怖を感じないで はいられなかった 綾子と寸分違わないもう一人の 娘がこの広い建物のどこかに隠 れているのだろうか そしてその娘が犯人の手先となって 邸内をさまよい歩きさまざまの 奇怪な行動をしているのではない だろうか だが明智はあのとき綾子の顔を 見たのだ たとえよく似た娘が変装していた のだとしても明智ともあろうもの にその見分けがつかなかったとは 考えられぬ 綾子お前そんなことを言ってわし をごまかすのじゃないだろうね ほんとうのことをいうんだよ どんなこみ入った事情があるにも せよお父さんに隠し立てをしてはいけない さあすっかり話してごらん 伊志田氏は唯物論者であった 怪談を信ずることはできない 綾子は何か秘密を持っているのか もしれないと考えたのである 綾子はそういう父の顔を恨めし げにじっと見つめていたが突然 恰好のよい唇の隅が笑い出しでも するようにキューッと引きつった お父さままだ疑っていらっしゃ るの 烈しい口調で言ったかと思うと 悲しみにゆがんでくる顔をハッと 両手で蔽い隠しそのまま肩を震 わせて泣き入るのであった はじめは声を噛み殺していたが 耐えられなくなったのかついには 子供のように声を立てて泣き出した 顔を蔽っている両手の指がみる みる涙で濡れて行く あんまりだわ あんまりだわ あたしが一郎さんをあんな目に あわせたやつとぐるだなんて そそんなことができるとお思い になって 押し殺しても押し殺しても突き 上げてくる泣き声のあいだに恨 みの言葉がほとんど言葉をなさぬ ほど途切れ途切れに聞こえた この感情の爆発には冷静な伊志田 氏もつい慌てないではいられなかった
彼は思わず椅子から立ち上がって 綾子の背中に手を当てながらやさしく なだめるのであった 何も泣く事はない もういい もういい お父さんはお前が犯罪に関係がある なんて考えたわけじゃないよ そんなことがあるはずはない ただお前がどうして塔の中など へはいったか訊ねてみただけさ さあもう泣くんじゃない だからだからあたし塔なんかへ はいった覚えはないと言っている のに 綾子はあくまで冤罪の恨みごと を言い立てる よしよしそれもわかった お前のいうように何かの間違い だろう さあもう行っておやすみ お父さんにはよくわかったのだから ね ねさあ部屋へお帰り 困り果ててだだっ子をなだめすか しているところへ泣き声を聞き つけたのか伊志田夫人の君代が はいってきたので伊志田氏はそれを よい潮にして君代に手短に仔細 を語り綾子をなだめて部屋へ連れて 行くように命じるのであった 名探偵の奇禍 結局その夜はうやむやに終ってしまった 家庭は裁判所ではないのだし伊 志田氏も明智探偵も裁判官ではない のだから泣き入る綾子を無慈悲 に追求することはできなかった とんだお騒がせをして申しわけ ありません 明智が詫びると伊志田氏はきまり わるそうにしながらそれを打ち 消して いや大きななりをしてまるで子供 です ああ泣かれては始末にいけません あなたが確かにごらんになった のですから綾子には何か私に隠 している秘密があるかもしれません がまさか共犯者というようなことは ありますまい まあもう少し様子を見ることに しましょう あなたもそれとなく気をつけて いてくださるようにお願いします と穏当な意見であった
明智が一郎青年の病室へ戻ると 負傷者は熱心に塔の出来事を訊 ねたが明智は伊志田氏との約束 もあったので綾子の名は出さず 怪しい人影を見たがつい取り逃 がしてしまったとのみ答えておい た それから三日のあいだは別段のこ ともなく過ぎ去った 綾子はあれ以来自室にこもって 神妙にしているし塔の窓に怪しい 光りもののするようなことも起こ らなかった 一郎の胸の傷も案外経過がよく 二三日もすれば繃帯が取れるほど 肉が上がっていた 眼の下の傷はほとんど快癒して 鬱陶しい顔の繃帯はすでに取り 去っていた もう看病の必要もなく明智の有 本医師はこの上伊志田邸に泊まり 込んでいる口実がないほどであった がしかし探偵としての職務は終 ったわけでなく一日でも永く邸 内にとどまっていたかったしそれ に一郎がしきりに引きとめるの でつい滞在を延ばしているのであった さて黒覆面の怪物の殺人未遂事件 があってから七日目の夜のこと であった 伊志田家の人は緊張に慣れていくら か高をくくるような気持になって いた 五人に増した書生のうち二人まで が家庭の都合で暇を取って七日 目には元からいた書生を合わせて 三人しか残っていなかったが人々 はさして心細がるようなことも なく主人の伊志田氏などは騒ぎ のために延ばしていた用件を果 たすために午後から外出して夜 がふけても帰らなかった だが悪魔はそういうふうに一同 が気をゆるすのを待っていたのだ そしてその夜主人の不在を見す まして第二の犠牲者を屠るべく 再びあのいやらしい姿を現わした のである 明智の有本医師はその晩もいつもの ように邸内の巡回をおこたらなかった 一郎青年が眠るのを見て自分に あてがわれた客用の寝室に引き 取ったがそのままベッドにもはい らず十一時頃には部屋を出て人々
の寝静まった廊下を足音を忍ばせ ながら歩きまわるのであった 階下を一巡して洗面所にはいる ために湯殿の前を通りかかると そのガラス窓の中に電燈がついて ボチャボチャと湯を使う音が聞こ えていた 家内の誰かが湯にはいっている のであろう だが少し遅すぎるようだなと思い ながらさして気にも止めず洗面所 にはいりしばらくしてそこを出る ともう湯殿のガラス窓はまっ暗 になっていて今そこのドアを出 たらしい人影が廊下を曲がって 行くうしろ姿がチラッと眼には いった 明智はそのうしろ姿を見ておや っと思った 気のせいかそれは伊志田家の人 ではないように感じられた なんだかまっ黒なものを着てその 裾が外套のようにフワフワしていた 男とも女とも想像がつかなかった 明智は足音を盗んでそのあとを追 った 廊下の角を曲がると遠くの電燈 の薄暗い光の中を影のようなもの が音もなく走って行くのが見え た おおあいつだ 黒覆面に黒いインバネスを着た あの怪物だ しかし明智はあわてて声を立てる ようなことはしなかった 相手が気づいていないのを幸い どこへ行くのか突きとめてやろう と考えあくまでも忍びやかに追跡 した 五六間行くとまた曲がり角があった 黒い怪物はさすがに用心深くその 角を曲がる時ヒョイとうしろを 振り返った そしてたちまち追跡者の姿を認 めてしまった いくら機敏な探偵でもどこに隠れる 場所もない狭い廊下ではとっさ の場合どうすることもできなかった 悟られてしまったからにはもうた めらっていることはない 明智は俄かに恐ろしい速度で駈 け出しながら待てっ とどなりつけた その角を曲がると廊下は行き止まり になっていた
右側は壁左側にはただ一つ住む 人もない空き部屋がある 追いつめられた怪物はその空き 部屋の中へ逃げこんでしまった 明智は一と飛びにドアの前に近 づきながらふと数日前この建物 を家捜ししたときの記憶を呼び 起こした この空き部屋の窓には確か鉄格子 がはめてあった もしその記憶が誤りでないとすれば 怪物は袋の鼠なのだ しめたぞ 思わずつぶやいてドアに手をかける と中から押えている様子もなく わけもなくひらいた だが部屋の中はまっ暗だ 電燈は引いてあるに違いないが 空き部屋のことだから電球がついて いるかどうかわからない 入口に近い壁をさぐってみると 幸いにもスイッチが手に触れた のでともかくもそれを押してみた するとあっうまいぐあいにパッと 電燈がついたのである 急いで部屋の中を見まわすと怪物 はどこへ隠れたのか姿もない 片隅にこわれかかった椅子が三脚 ほうり出してあるほかになんの 調度もないガランとした部屋だ 怪物は又しても妖術を使って消え 失せてしまったのであろうか いやそうではない 窓の前に厚いカーテンが懸けたまま になっていてそれが風もないのに かすかに揺れているではないか 隠れているのだ あいつは窓の格子にさえぎられて そとへ逃げ出すこともできずカーテン の蔭にじっと身を潜めているのだ 明智はツカツカとその前に近づ いて行った だが明智は少し大胆すぎはしなかった であろうか 怪物はなぜ逃げ道もないこの部屋 に隠れたのだ これまでの手際でもわかるように 犯人はそれほど無考えなやつではない もしかしたら彼は逃げると見せ かけて明智をここへおびきよせ たのではないだろうか さすがの名探偵もそこまでは考え 及ばなかった 怪物を追いつめた興奮に夢中になって いた
おいもうだめだよ 君は袋の鼠だ さあそんな所に隠れていないで ここへ出てきたまえ 明智はいつもの癖でまるで友だち にでも対するようにおだやかに 声をかけた 相手は答えなかった 答える代りにカーテンの隙間から あの無気味な覆面の顔をヌーッと 出してクックッと笑った 男とも女とも老人とも若者とも 判断のつかぬ異様な声でクック ッと笑った おおなんという大胆不敵なやつ だ 顔を出したばかりでなく彼は黒 マントの全身を現わして逆に明智 の方へジリジリと詰めよってきた 二人のあいだは三尺とは隔たぬ 近さになった 相手の肩が呼吸のたびに静かに 動いているのがわかる 怪物はさらに一歩前進した そしてコウモリのようなインバ ネスがフワリと揺れたかと思う とおおあの匂いがヘリオトロープ の匂いがほのかに明智の鼻孔を くすぐった おお君は 思わず叫んでその肩を掴もうとした 時インバネスの下からチカッと 光るものが覗いた そして何か烈しい物音がして部屋の 空気が恐ろしく動揺した アッという叫び声と共に倒れた のは明智の方であった 怪物は今度はピストルを用意していた のだ そのピストルの弾丸が名探偵を 倒したのだ 明智が倒れたのを見ると怪物は コウモリのようにマントをひるが えしてサッと部屋を飛び出して どことも知れず逃げ去ってしまった やがてピストルの音に驚いた書 生たちが駈けつけてきた そして空き部屋に重傷にうめく 有本医師を発見した 右手で押えた左の肩口から血が あふれ手の甲を染めてポタポタ と床にしたたっていた 先生しっかりしてください あいつですか あいつがまた現われたのですか
刑事上がりの書生が有本医師を 抱き起こしながら叫んだ 有本医師は痛手に口をきく力もない ように見えた だが失神せんとする気力を奮い 起こして僅かに唇を動かした 湯殿を早く湯殿を調べてくれ なんの意味かわからなかったけれど ほかの二人の書生はいきなり湯殿 の方へ駈け出した 途中の廊下で騒ぎを聞きつけて 病床から起き出してきた一郎青年 に出会った どうしたんだ 何事が起こったんだ 有本先生が大変です ピストルで打たれたので えっ有本先生が 一郎はさっと顔色を変えて教え られた空き部屋の方へ飛んで行った 二人の書生は湯殿の前に駈けつけた が恐ろしくて急にドアをひらく 気にはなれなかった その前に見張り番のように立ち はだかったまま意味もない言葉 争いをしながら誰か応援者が来て くれるのを心待ちにしていた そうしているところへ一郎青年 が息を切らして走ってきた やはり負傷者の指図で恐ろしい 予感におびえながら湯殿へ駈け つけたのだ 君たち何をしているんだ 早く中へはいって調べてみるんだ 応援者に力を得て書生の一人が 思い切ってドアをあけた 三人は脱衣場になだれこんだ 一郎がスイッチを押すとパッと 電燈がついた だがまだ浴場とのあいだに磨り ガラスの戸がある ガラガラと音を立ててそれがひら かれた そしてタイル張りの浴槽を一と 眼見たかと思うと三人の口から ギョッとするような叫び声が漏れ 化石したかのようにその場に立ち すくんでしまった 空を歩く妖怪 タイル張りの浴槽の中にはまっ赤 な湯があふれていた そしてその血の池の中に一人の 女性が屍体となって浮き上がって いた 君たち少し遠慮してくれたまえ
そしてお父さまや綾子姉さんにこ のことを知らせ女中たちをよこ してくれたまえ 一郎青年は書生たちを両手で湯殿 のそとへ押し出すようにしながら 叫んだ 被害者は一郎たちの義母の君代 であった まだ三十歳を少し越したばかり の美しい君代であった 悪魔の掟にしたがって彼女もや はり眼をやられていた そして心臓の一と抉りが彼女の 生命を完全に奪い去っていた やがて父の伊志田氏と綾子と女 中たちがかけつけ美しい義母の 屍体には何枚かの湯上がりタオル がまきつけられて彼女の寝室へ 運ばれた 重傷の明智探偵はすぐさま外科病院 へ運ばなければならなかった 明智自身の希望によって彼の友 人の医学博士が経営している外科病院 に電話がかけられ時を移さずそこ から寝台自動車がきて名探偵を 運んで行った 一方警視庁にこの事が急報された のはいうまでもない 間もなく北森捜査課長が部下を 引きつれて駈けつけ綿密な調査 をとげたが結局犯人については なんの手掛りを掴むこともでき なかった 邸内の人々は一人一人取調べあら ゆる出入口を検査したが黒い怪物 はどこから侵入しどこから逃げ 去ったのかまったく不明であった 庭にも足跡らしいものさえ残って いなかった 悪魔は一郎青年を傷つけ名探偵 を倒しついに伊志田夫人の生命 を奪ったのである 主人の伊志田氏はもとより家族 のものの悲歎と恐怖とは極点に 達した 何よりも恐ろしいのは相手の正体 がまったくわからぬことであった 今の世に妖怪を信じることはできない がやはり妖怪の仕業とでも考える ほかには解釈のくだしようがなかった 頼みに思う名探偵さえ病床の人 となってしまった 警察もこれという意見を立て得 ない様子である
今は神仏に頼りでもするほかには この恐怖をまぎらす手段もない ような有様であった そういう頼るところもない不安 と焦慮のうちに三日間が過ぎ去 って行った それでも君代の葬儀がすむまで は人の出入りも多く邸内がざわ めいていて何かと気もまぎれて いたがそれもすんでしまうとい よいよ堪えがたいさびしさがお そってきた 古い西洋館の隅々に悪鬼の怨念 が潜んでいるかと疑われ殊にあの 三階の円塔は魑魅魍魎の棲みか のようにさえ思われて誰もその 付近へ近よるものもない有様であった 浴場殺人事件の翌々日に葬儀がお こなわれその翌日すなわち事件 から三日後の夜八時頃のことであった 一郎青年はもうすっかり床ばらい をして二階の書斎で父の伊志田 氏と今後の邸内の警戒について いろいろと話し合っていた 書生は元の通り五人にふえていた しその上北森課長の計らいで警視庁 の腕ききの刑事が一人邸内に泊まり 込んで警戒に当たっていてくれた それほどにしても一郎はまだ安心 はできないというのである しかしもうこれ以上どうも仕方 がないじゃないか お前に何か名案でもあるのかね 伊志田氏は一郎ほどは神経質で なかった 引越しをするんです 僕はこの陰気な広い建物がいけない と思うんです あいつはこの古い西洋館にずっと つきまとっている何かの怨霊かもし れません 僕はこうしていてもあいつが屋敷 のどこかの隅に身を潜めてじっと 機会を狙っているような気持が して仕方がないのです お父さま僕たちは引越しをする わけにはいかないのでしょうか 一郎は熱心に転宅を勧めるのであった ウムそれはわしも考えないではない しかしあんなやつ一人のために 永年住み慣れたこの家を引越す というのもなんだかあいつに負け て逃げ出すようで気が進まない のだよ
お前はじき怨霊などというがそんな ものがあるはずはない やはりあいつも人間なのだ ただ少しわる賢い人間というだけ のことだ 人間を人間の力で防げぬはずはない わしの気持ではね一郎あいつが もう一度現われるのを待っている のだよ そして今度こそ引っ捉えて眼に 物見せてくれようとそれを楽しみ に思っているくらいだ わしは君代の敵が討ちたいのだよ 伊志田氏は何か心中深く決する ところあるもののように強い調子 でいうのであった しかし僕は 一郎は何か言いかけて突然ギョ ッとだまり込んでしまった そして父と子とは刺すような眼 でお互いの顔を見つめあった それは銃声であった 邸内のどこかからピストルらしい 銃声が聞こえてきたのであった 下のようですね ウン見てきてごらん 短い言葉をかわして一郎は飛ぶ ように部屋を出て行った 階段を駈け降りて廊下へ出ると 向こうから一人の書生が顔色を 変えて走ってきた 鞠子さんが エッ鞠子が撃たれたのか 部屋に倒れていらっしゃるのです 鞠子の勉強部屋は姉の綾子の部屋 の隣にあった 一郎は先ずその綾子の部屋のドア をひらいてみたが彼女の姿は見え なかった 鞠子の部屋へ飛びこむと部屋の まん中に女学生服の少女が俯伏せ に倒れたままじっと身動きもしないで いた 鞠ちゃんどうしたの 大声で呼んで肩に手をかけ引き 起こそうとしたがその手がたち まち血に染まった よく見ると鞠子は胸の心臓のあたり を撃たれてまったくこときれている ことがわかった おい斎藤君 一郎は廊下に立っている書生を 呼んで訊ねた 君はあいつを見たのか いいえ誰も見ません
廊下を見まわっていますと突然 この部屋の中でピストルの音が 聞こえたのです すぐドアをあけてはいってみました が鞠子さんが倒れていらっしゃ るばかりでほかには誰もいません でした 書生が答えた フーンじゃあ窓から逃げたのかな すぐ庭に面した窓へ行って調べ てみたがガラス戸はちゃんと閉 まっていた その上内部から掛け金さえかけて あった 窓を除くとその部屋には廊下に ひらいているドアのほかにはまった く出入口がないのである 変だなあ 窓は中から閉まってるぜ 君はその音を聞いた時このドア の見える場所にいたのかい ええつい一間ほど向こうを歩いて いたのです 逃げ出すやつがあれば私の眼には いらぬはずはなかったのです ドアは閉まっていたのかい そうです ちゃんと閉まったままでした 私がここへはいるまで誰もひら いたものはないのです 黒覆面の怪物はカーテンのうしろ に姿を隠す癖があった だがこの鞠子の部屋にはそんな 大きなカーテンはなかった 机の下や箪笥のうしろなども調べ てみたがどこにも怪しいところ はなかった 一郎はさらに天井を見廻したり ジュウタンをめくって床板を調べ たりしたが秘密の出入口がある ようにも見えなかった 伊志田氏もおくればせにはいって きて鞠子の死骸を抱き上げていた さすがの伊志田氏も矢つぎ早に おそいかかる不幸にすっかりうちの めされているように見えた やっぱりあいつは幽霊です どこにも出入りした跡がないの です 窓のそとからピストルを撃った とすればガラスが割れていなければ なりませんしほかに弾丸のはい ってくるような隙間はありません これでもあいつは骨と肉を持った 人間なのでしょうか
一郎は現実家の父を反駁するように 言って伊志田氏の青ざめた顔を 見つめるのであった 一郎さんちょっとちょっとあれ を 突然書生の斎藤がささやくように 言って一郎の腕を取って庭に面 した窓のそばへつれて行った 窓のそとにはまっ暗に庭樹が茂 っていた 常夜燈の淡い光が立木の茂みを ボンヤリと照らし出していた 書生の眼はそれらの木々の枝を 越して屋敷を囲む煉瓦塀の上に 注がれているように見えた その部分は樹木が少しまばらになって 古い煉瓦塀の一部が黒い堤かなんか のように見えすいていた 一郎が書生の眼を追ってそこを 注視すると煉瓦塀の頂上に何か 黒い影がうごめいていた 闇夜だったので空も暗くそのものは 闇の中から闇が抜け出したような 感じで動いていた 眼が慣れるにしたがってその黒い ものが人間の形をしていることが わかった 常夜燈の光にも遠いので非常に ボンヤリした姿ではあったが決 して人間以外の生きものではなかった そのものはまるで綱渡りでもする ようにからだで調子を取りながら 高い塀の頂上を直立して右から 左へとゆっくりゆっくり歩いて いた 白いはずの顔もまっ黒であった 覆面をしているのだ 着物の裾が広くダブダブして足を 隠しているように見えた 黒いマントを着ているのに違い ない あああいつだ 覆面の怪物だ 悪魔は第二の犠牲を屠って闇の 空をいずれへか立ち去ろうとして いるのだ お父さんあいつです おい君たち早く そこに集まっていた書生の二三 はためらわず窓をひらいて庭へ 飛び出して行った 警視庁からきている刑事も時を 移さず庭へ出て行った 樹木の中に懐中電燈の光が交錯 し黒い人影が右往左往するのが
眺められた いつの間にか煉瓦塀を乗り越して そとへ出ているものもあるらしく 内とそとから呼びかわす声が無 気味に聞こえた だが怪物はどこをどう逃げたのか いくら探してもその姿を捉える ことができなかった 刑事や書生たちがむだな捜索を 打ち切ってがっかりして元の部屋 に引き返し不思議だ不思議だと 言いかわしているところへ外出 姿の洋装の綾子がどこからか帰ってきた そして妹の変死を知るといきなり その屍体にすがりついて鞠子の 名を呼びながらむせび泣くのであった 姉さんどこへ行っていたの夜外出 なんかして物騒じゃないか 一郎が詰問するように言うと綾子 は涙に濡れた顔を上げてじっと 弟の顔を見つめたが何も言わず ただ一種異様の謎のような微笑 を浮かべるばかりであった 壁の穴 その翌日一郎青年は新しい出来事 を報告して今後の処置を相談する ために同じ区内の篠田外科病院 に明智小五郎を訪ねていた 明智の傷は思ったより重傷であった けれどベッドに寝ながら人に会う くらいの事は許されていた 一郎は看護婦を遠ざけて探偵の 枕元に腰かけきのうの出来事を 詳しく報告した ホウあいつが塀の上を歩いてい たんだって 明智はなぜかひどく興味を覚えた らしく無事な方の手で例のモジャ モジャの頭をかき廻しながら言った たぶん塀を越して逃げるところ だったのでしょうがそれにして も少なくとも一間か一間半は塀 の頂上を綱渡りのように歩いて いたのです なぜあんなまねをしたのか不思議 で仕方がありません 君たちに姿を見せるためなんだよ ほかの者がやったんじゃないこの おれがやったんだということを ね ピストルはどこから撃ち込まれ たかまったくわからない 犯人の出入りした形跡がない それにもかかわらずおれはちゃんと 目的を果たしたんだ
おれの腕前はどんなものだということ を君たちに見せびらかしたんだね その後別に発見もなかったの それですよ 先生僕は実に驚くべきものを発見 したんです あいつの犯罪手段がわかったの です えっ君が発見したって そうです 警視庁の刑事さんではなくてこの 僕が発見したんです 一郎は得意らしく頬を赤らめて 言った 僕は鞠子の部屋をけさ早くから 調べてみたのです すると鞠子の部屋と綾子姉さん の部屋との境の壁のまん中に小さな 穴があいていることを発見しました 御承知の通り二人の部屋は隣合わせ なのです なんのためにあけた穴かわかりません が以前あの家に住んでいた西洋 人がそういう穴をこしらえておい たのでしょう 穴の上には両側とも壁の装飾のように 木彫りの動物の顔で蓋をしてちょっと わからないように隠してあるの です 妙な家でどの部屋にもいろいろな 彫刻がついているので その穴隠しの彫刻も少しも目立たない ようになっているのです フーン面白いね 秘密の覗き穴というわけだね 君の家はそういう仕掛けのあり そうな建物だよ 綾子さんや鞠子さんはその穴のある ことを知っていたのかね 知っていたらしいのです 姉に聞いてみると二人はそこの 蓋をあけて電話でもかけるように 両側から話し合って遊んだこと があるというのです なるほど で君はその穴についてどういう 考え方をしたんだね 明智は非常に熱心な面持ちでじ っと一郎の顔を見つめながら訊 ねた 最初はあいつが綾子姉さんの部屋 に隠れていてその穴から鞠子を 撃ったのではないかと考えました その彫刻のある蓋というのは上部 だけ壁にとりつけてあって一度
ひらいても手を放せばバタンと 閉まってしまうような仕掛けになっている のです ですからあいつは綾子姉さんの 声をまねて鞠子にあの穴の蓋を ひらかせたのかもしれません そして鞠子がなにげなく例の電話 遊びをするつもりで蓋をひらいた ところを狙い撃ちにしたとも考え られます 穴の蓋は自然に閉まってしまう のであとにはなんの痕跡も残らない のですからね フンそうも考えられるね で綾子さんの部屋の窓は中から しまりはしてなかったの ああ先生お気づきになりました ね 僕もそれを調べて行き詰まって しまったのです 窓にはちゃんと中から掛け金が かけてあったのです つまり犯人は姉の部屋の窓から も逃げ出すことはできなかった のです 姉の部屋もやっぱり窓のほかには 廊下のドアしか出入口はないの ですがそのドアは鞠子の部屋と 同じがわの廊下にひらいている のでそこからあいつが逃げ出した とすれば書生の斎藤が気づかぬ はずがないのです やっぱり密室の犯罪だね で君はそれをどう解釈したの 僕は恐ろしいことを想像したの です 口に出していうのも恐ろしいこと なんです それできょうここへきたのもその 僕の想像を先生に聞いていただ いて正しい判断をくだしてほしい と思ったからなのです 言ってごらん 君はその壁の穴の中に何かの痕跡 を発見したんじゃないのかい そうです 僕はそれを見つけたのです 穴の内側に太い釘を幾つも打ち つけた痕があるんです その痕の様子では何か小さなもの を穴の中へしっかり取りつける ために釘を打ったとしか思えない のです 釘を打って針金を巻きつけて何か を取りつけたのです
小型のピストルを ええ僕もそう思うのです そして鞠子の部屋のがわの蓋の裏 に針金を引っぱるか何かして鞠 子がそれをひらく途端にピストル が発射するような仕掛けをして おいたのじゃないかと思います 穴の位置はちょうど鞠子の胸くらい なのですからこの想像は突飛な ようでも決して不可能ではない のです ピストルが発射して鞠子が倒れる と蓋は元の通りふさいでしまう のですからね 鞠子さんの倒れていた位置は ちょうどその隠し穴の前なのです フーン君の想像が当たっている かもしれないね そういう手段で人を殺した例は 外国にもあるんだからね で君は誰がそれを仕掛けたかという 想像を組み立ててその想像の恐ろ しさに悩まされているというの だろうね そうです 僕はそれを先生にお話しするさえ 怖いのです 言ってはいけないことじゃない かと思うのです しかしともかくお話ししてみます できることなら先生に僕の間違い を指摘していただきたいのです それを発見して先ず僕が考えた のは誰がその装置をしたかということ です そういう仕掛けを人知れず取り つけることのできる立場にいた ものは誰かということを考えたの です それから鞠子に適当な時にあの 蓋をひらかせるためには前もって そのことを鞠子に言い含めておか なくてはなりませんがそういう ことのできる立場にいるもの又 その命令を鞠子が素直に承知する ような立場にいるものはいったい 誰かということです さまざまの事情が彼の想像を裏 書きしていたので明智も一郎の 説明を聞いてその推論に同意を 表しないわけにはいかなかった だがこの考えが正しいとすると 実に意外な人物を犯人として疑 わねばならないのだ
その壁の穴に人知れずそういう 仕掛けをすることができるものは 前後の事情から判断して鞠子の 隣室を居間としている綾子被害者 の実の姉の綾子のほかになかった からである 一郎は論理の筋道をたどって行って 結局わが姉の綾子を疑わねばならぬ 窮地に立った 彼はさすがにそれと名ざして言う ことはできなかったけれどその 恐ろしい結論をもたらして敬慕 する明智探偵の判断を仰ごうとした のである 一郎の美しい顔は今にも泣き出し そうにゆがんでいた 日頃から青白い顔がひとしお青 ざめて病人のように見えた で君はその人を真犯人と疑っている のだね ベッドの明智が思いやり深く静かな 声で訊ねた 僕は信じられないのです しかしあらゆる可能性を排除して 行ってあとに残ったたった一つの 結論がこれなのです 僕の推理が間違っているのでしょうか できるならば先生にその間違い を指摘していただきたいのです 一郎は恐ろしいほど真剣な表情 であった 僕は君が考えているほど決定的 だとは思っていない しかし 残念なことにあの人にはほかに もいろいろ困った情況が揃っている のだし 明智はそれを言おうか言うまい かとためらっているように見え た えっほかにもいろいろってそれは どんなことですか 君にはまだ言わなかったけれど お父さんはもうご存知のことなんだ 隠しておいても仕方がない それよりもすっかり話し合って 君の考えも聞く方がいいかも知 れない いつかの晩君があの塔の窓に妙 な光りものを見つけて僕が塔へ 調べに行ったことがあるね 明智はその夜の異様な光景をま ざまざと思い浮かべているもの のように宙を見ながら言った ええ覚えています
あのとき先生のお帰りが大へん 手間どったので何があったのか と僕はうるさくおたずねしたの だけれど先生はなぜかあいまい にしかお答えにならなかったの です 君に聞かせて興奮させてはからだ にさわると思ったからだよ 実はあの時塔の三階の窓から屋敷 のそとにいる誰かに懐中電燈で 合図をしていたのは綾子さんだった 僕は顔もみたしその人が綾子さんの 居間へはいったのも見届けた 綾子さんの愛用しているヘリオトロープ の匂いがなぜかふだんよりも強く 匂っていた 明智はそれからあとの読者がす でにご存知の出来事を詳しく物語 った お父さんは綾子さんを呼びつけて きびしく問いただされたのだが 綾子さんはまったく塔にのぼった 覚えはないと言ってしまいには ひどく泣き出してしまった 綾子さんがあまり興奮するので それ以上問いつめるわけにもい かずそのままになってしまった が僕の見たことは間違いないの だからたとえ殺人事件に関係はない にしても綾子さんが塔にのぼって 妙な合図をしていたという事実 は動かせない そうですか 姉さんがそんなことをしたんですか でもそれは怪しい行動をしたという だけで直接の証拠ではありません ね ウンその晩の出来事だけを言えば ね 明智は気の毒そうに一郎の美しい 顔を見た えっじゃあまだほかにも何かあ るんですか 湯殿の事件の時にね僕はあの覆面 のやつを空き部屋の中へ追いつ めて面と向き合ったのだがその時 またヘリオトロープの匂いが烈 しく僕の鼻を打ったのだよ 明智はそこで言葉を切ってじっと 相手の顔を見た 一郎はギョッとしたように眼の色 を変えて明智を見返した しばらく異様な沈黙がつづいた ああそれではあの覆面の怪物は 最初から綾子だったのであろうか
男か女か老人か若者かまったく 見当のつかぬ声身のたけを隠した ダブダブのインバネスあのイン バネスの中には思いもよらぬか よわい女性の肉体が包まれていた のであろうか この考えはその人の弟である一郎 はもとより事に慣れた明智小五郎 をさえ慄然としてわが理性を疑 わせるようなものであった ああいかにしてかくのごときことが 可能なのであろう あの牡丹のように美しい二十歳 を越したばかりの娘が人を殺し 得るのであろうか しかもその被害者はみな彼女の 家族なのだ 弟を傷つけ母を殺し妹を殺す そこにいかなる動機を想像し得 るのであろうか 僕は信じられません百の証拠が あってもあの人にそんな恐ろしい まねができるとは考えられません 一郎は唇をワナワナと震わせながら 自分自身の心を説き伏せようとする かのように強く言いはなった 一つ最初から考えてみよう 君はあいつの襲撃を受けてとっ組 み合ったことがあるんだね その時の手ざわりが思い出せない かね いくら興奮していても男の骨組 と女のからだとの区別ぐらいは つくと思うが 一郎はそれを聞いてなぜかハッと したように見えた そして少しのあいだ返事をため らっていたがやがて力のない声 で 妙にお思いでしょうがまったく 記憶がないのです むろんその時は相手が女だなんて 思いもよらなかったのですが とあいまいに答えた やっぱり相手の肉体に女を感じ たのかもしれない それをそうとは言い得ない様子 である すると最初の事件には綾子さんの 嫌疑をはらす積極的な証拠はない わけだね あの時僕はカーテンの蔭の曲者 を発見して追いかけたがご隠居 の部屋の前でかき消すように姿 を見失ってしまった
僕はすぐ御老人の部屋へはいって 誰か逃げこんでこなかったかと お訊ねしたんだが御老人は誰も こないという御返事だった 僕はその時御老人が犯人を知って いて部屋へはいってきたのを窓 から庭へでも逃がしてやって素 知らぬ顔をしていらっしゃるの じゃないかと妙な邪推をした 君だからこんなことまで話すの だが僕は大へん礼を失すること だけれど御老人を疑いさえした だがそれはただ想像にすぎない 確証があるわけではない しかしねもし犯人がいま僕らが 問題にしている人だったとしたら 御老人は孫をかばってやろうという 気持になられなかったとは言えない ね あの時の情況は綾子さんにとって 決して有利ではないわけだよ 綾子さんはおばあさんに可愛がら れているのだろうね ええ僕ら兄妹のうちでは一ばん 気に入りです そして二人は少しのあいだだま ったまま顔を見合わせていたが やがて明智は又はじめる 第二の事件の湯殿の場合も僕が 犯人を追ってヘリオトロープの 匂いを嗅いだのだからこれも不利 な情況だ 第三の鞠子ちゃんの場合は君が 壁の穴のからくりを発見した そしてそういう仕掛けのできる のはさし当たってあの人のほか にはない 鞠子ちゃんの事件があった時覆面 のやつが庭の煉瓦塀の上を歩いて 君たちに姿を見せた そしてそれからしばらくして綾子 さんが外出から帰ってきた ここでもアリバイは成り立たない わけだね そのほかに塔の上の怪しい行動 もあるのだからもしこれが君の 姉さんでなかったらさっそく被疑者 としての処置を講じなければならない のだが 考えるほど綾子の嫌疑は濃厚になる ばかりであった だが綾子への疑いが深まれば深 まるほどこの推定は化物じみた ものになって行った
二十歳の娘とそんな大犯罪とを 結びつけることはどう考えてみ ても気違いじみていた 彼女にそれほどの大それた腕前 があろうとも思えなかったしまた 想像し得べき動機がまったくない と言ってもよかった 僕は兄妹の感情としては微塵も 疑う気持にはなれません しかし理論はやっぱりあの人を 指さしているようです その矛盾をどう解いたらいいの でしょう 僕は外見には少しもわからない 精神病というものをふと考えて みたのですが 一郎は沈んだ声で問題にさらに 新しい方向を与えた 思いあまったあげく精神病にまで 考え及んだのであろう 二重人格だね ええそうとでも考えなければこの 謎は解けないような気がするの です ああ一郎は彼の姉にジーキルハイド の二重人格を想像せんとしている のだ 伊志田邸に立ちこめる悪鬼の呪い はうら若き女性の心に巣喰うハイド であったのだろうか 昼間は世に聞こえた大学者夜は 殺人の野獣と変るあのジーキル ハイドの魂が都会の盲点に隠れる 中世風の建物の古塔の中へ今や 再生したのであろうか 名探偵の盲点 ああ君はそこまで考えていたのか 明智は驚いたように美しい青年 の顔を見つめた むろんそういう場合も考えられない ではない しかし僕はそういうことを考える 前にまだ一つこの謎を解くいと ぐちが残っていると思うのだよ それはねこの犯罪には共犯者が なかったかということだ いや共犯者というよりも一人の うら若い女性を人形として心にも ない行動を取らせた恐るべき蔭 の人物が存在するのではないか ということだ 綾子さんは塔の頂上から屋敷の そとの誰かに懐中電燈の合図を した
あれはただ一と晩のことではな くてその前にもその後にも人知 れず同じ合図を繰り返していたか もしれない その合図を受けていたのはいったい 何者だろう 僕は犯人の断定をくだす前に先 ずこの秘密を探らなければならない と思うのだよ ああそうでした 僕は塔の出来事を知らなかった のでそこまで気がつきませんでした が先ずそれを確かめてみなければ なりませんね 一郎は少しでも姉の罪の軽くなる ことを願うかのようにやや明かる い表情になっていうのであった むろん僕は塔の出来事があって から君のうちに泊っていた三日の あいだ毎晩それに注意していた が三日間は何事もなかった それからここへ入院して二日ほど 何を考える力もなかったがおと といそのことを思い出して助手 のものに毎晩君のうちをそとから 見張らせてあるのだよ もし塔の窓に合図の光を見たら その受信者を探し出すようにね そうでしたか こんなおからだでそこまで気を 配っていてくださるとは思いも よりませんでした 一郎は驚きの色さえ見せて名探偵 の周到な用意を感謝するのであった あいつがなぜ僕を撃ったか むろん追いつめられた苦しまぎ れでもあったのだが一つは僕が 君のうちに泊り込んでいては思う ように行動できないのでしばらく 僕を遠ざけるためではないかと 思うのだよ あいつは決してヘマをやらない やつだ 僕を殺そうと思えば充分殺せたの だ それをわざと急所をさけてここ を撃ったのは僕はあいつの殺人 予定表にはいっていなかったからだ と思うよ そうして僕を遠ざけておいてその あいだにあいつはすっかり予定 の行動を終るつもりかもしれない だから僕はこうしていても気が 気ではないのだよ
君も充分身辺に注意していてくれ たまえ あいつは決して君を殺すことを 諦めたわけじゃないのだからね お父さんやおばあさんにも気をつけて 上げなけりゃいけない 夜の見張りは大丈夫だろうね ええ鞠子のことがあったので北森 さんのお計らいで又うちの警戒 が厳重になったようです 僕はあんな無気味なうちにいる よりもいっそ転宅した方がよく はないかと父に勧めたのですけれど 父は母の敵を捉えるまで意地にも このうちに頑張っているんだとい って聞かないのです ウン転宅するのも一案だがあいつ にかかってはたとえ住まいを変 えてみたって同じことかもしれない 何よりも警戒が大事だよ そしてさし当たっては綾子さんの 行動によく注意することだ また塔の中へはいるようなことが あったら決して見逃がさないように してくれたまえ 明智はまだ傷口が癒えていなかった し食慾も進まず体力も衰えていた のでこれ以上の会話は苦痛らしく 見えた それにちょうどその時遠ざけて あった看護婦がはいってきたの で一郎はそれをしおに暇をつげる ことにした それじゃお大事に ウン君もよく気をつけてね 一郎はベッドの明智の顔の上に かがみ込むようにして親しげに 挨拶した その様子には事件の依頼者と探偵 との関係ではなくて何かしら父 と子或いは兄と弟のようにうち とけたものが感じられた 一郎が立ち去ると明智は楽な姿勢 に寝返りをして一とこと二たこと 看護婦に口をきいたがそのまま 眼をふさいでしまった 眠ったのではなくて何か深い考え に沈んでいる様子である 若い看護婦は所在なく椅子にかけ 雑誌を読み明智は仰臥して瞑目 したまま春の日の三十分ほどが 深い沈黙のうちに流れていった あっそうだ あれがおれの盲点にかかってい たんだ
突如としてベッドの明智の口から 譫言のような叫び声が漏れた まあどうなすったのです 夢をごらんになったの 看護婦がびっくりして椅子を立ち ベッドのそばへ寄って来た ヤ失敬失敬なあに夢じゃないの だよ 考えごとをしていたのさ そしてね大発見をしたものだから つい口に出してしまったのさ あらそうでしたのでもあまり考え ごとなすっちゃおからだにさわり ますわ 少しお寝りになっては 看護婦はむろん明智の盛名を聞き 知っていた フフフフフとても寝られないよ 考えごとは僕の恋人なんだから ね 今すばらしい恋人を発見したという わけなんだよ 君はいろいろな人の家庭を見てい るんだからこの世の裏に通じている はずだね 裏ってもの面白いとは思わない かい 殊に僕の仕事ではねその裏にまた 裏があるんだよ そのもう一つ奥の裏だってあるん だよ ハハハハハ 明智はモジャモジャ頭を無事な 方の手で乱暴に引っかきまわし ながら有頂天の有様であった 青白い顔が桃色に紅潮して眼が キラキラとかがやいていた 明智ほどの人物をこんなに興奮 させる発見とはそもそも何事であった のか むろん伊志田家の犯罪について であろうがいま一郎と論じつく したばかりのその事件にいったい どんな新解釈が可能であったのか 君すぐ電話をかけてくれないか いや僕のうちじゃないよ 麻布のね二七一〇番有明荘という アパートだ そこの越野という人を呼び出して ね僕からだといってすぐここへ くるように頼んでくれたまえ わかったかい 越野というのは僕の仕事の手伝い をしてくれる男なんだよ
看護婦ははしゃぎきっている明智 の様子に面喰いながら電話番号 を暗記して部屋を出て行った ああおれはなぜそこへ気がつか なかったのだろう 外形にまどわされていたんだ 非常な失策だ 殺さなくてもいい人を殺してしまった だが越野にうまくやれるかしら おれが動けるといいんだがこの からだではとても外出は許されない し 明智はさももどかしげに一そう 乱暴に髪の毛をかきまわしながら 声に出して独り言をいうのであった 第三の銃声 お話はその翌日の夜更け伊志田 邸の塀外に移る それまでは同邸には別段の異変 も起こっていなかった だがその夜又しても新しい怪事件 が突発したのである 伊志田屋敷の裏手には建物を取 毀したまま永いあいだ空地になっている 原っぱがあった 夜更けの十一時闇の原っぱの立 木の茂みの蔭に人の息遣いが聞こ えた おとなではない 鳥打帽子に紺の詰襟を着た十五 六歳の可愛らしい少年である 木蔭に身を隠して何かを待っている 様子だ 時々立ち上がって背伸びをして 伊志田邸の例の三階の円塔のあたり をじっと見つめている この少年は明智探偵の助手の小林 芳雄であった 子供とはいえこれまでにも明智 を助けていろいろの手柄を立て た名助手である 病院で明智が伊志田一郎に塔の 合図の見張りをさせてあると語 ったのはこの小林少年のことであった 小林はきのうもおとといも同じ 場所に宵から夜明けまで辛抱強い 見張りをつづけていた だが円塔の窓にはいっこうそれ らしい光も見えないのであった 今夜もむだな見張りをするのかしら ああ早く合図の光が現われてくれ ればいいのに 暖かい春の夜野外に夜を明かす のもさして苦痛ではなかったが
ちゃんと昼寝がしてあるのに何事も 起こらない退屈のあまりともすれば 眠気がきざすのであった だがその夜は睡魔に襲われなくて すんだ 夜光時計のちょうど十一時つい に円塔に光りものがしたのである おやっあれだなっ 眼をこらせば闇夜にひときわ黒く 聳え立った円塔の上部三階の窓 とおぼしきあたりにチラチラと 消えては光る電光があった その点滅の仕方が確かに信号である あの信号は誰に向かって送られている のか それを探り出すのが小林少年の 役目なのだ 彼は広っぱの方に向きなおって 闇の彼方をキョロキョロと探し 求めた するとおお見つけたぞ 広っぱの左手の隅の一軒の家の 前にやはり懐中電燈とおぼしき 光がチカチカと点滅しているではない か 円塔の光と広っぱの光とはしばらく のあいだ相呼応してチカチカと 瞬きを送り合っていたがやがて パッタリとそれが消えてしまった 小林少年は闇の中からじっと双方 の光り物を観察していたが両方 とも信号終り という調子で消えてしまったの で今こそとばかり原っぱの隅の家 の方へ歩き出した 相手に見とがめられては大変なので 闇とはいえ身をかがめ地物を伝 うようにしてソロソロとその方 へ近づいて行った ところがそうして二十歩ほども 歩いた時である 突然行く手の闇の中にボーッと 人の姿が浮き上がってきた 誰かがこちらへ歩いてくるのだ ひょっとしたら電光信号を取り かわしていたやつかもしれない こいつこそ綾子さんの背後に潜 む邪悪の張本人かもしれない ハッと身を伏せて窺っていると 相手は小林少年には気づかなかった 様子で急ぎ足に伊志田屋敷の方 へ歩いて行く 身を伏せているつい二三間先を 通り過ぎたので夜目ながらその 姿をおぼろに認めることができた
それはスラッと背の高い若い男 であった 背広服を着てソフト帽をかぶって いた 顔はよく見分けられなかったけれど 目がねはかけていないし口ひげ もなくなんとなくノッペリした 青年のように感じられた 見ているとその青年は原っぱに 捨ててあった毀れかかった荷造り 用の木箱を拾い上げてそれを伊 志田家の煉瓦塀の下に運んで行った そしてその木箱を踏み台にして 高い煉瓦塀に飛びつきモガモガ と足を動かしていたかと思うと とうとう塀の頂上に登りついて しまった さてはあいつ塀を越して邸内へ 忍び込むつもりだな 小林少年は胸をドキドキさせて その様子を見つめていたがやが て青年の姿が塀の中へ消えてしまう とさてどうしたものかとためら った 表門に廻って邸内の人にこの事 を知らせるのも一策だ またそのまま青年の跡を追って 塀の中へ忍び込み彼が何をする かを見届けるのも一策だ やがて小林少年は後の方の策を えらぶことにきめた 明智探偵の日頃の教訓に怪しい 人物が現われたら急いで騒ぎ立て ないでそいつが何をするかをよく 観察するがいいという一か条があった のを思い出したからである そこで少年はやはり同じ木箱を 踏み台にして塀に飛びつき器械体操 の仕ぐさでなんなく頂上に登った 頂上に腹這いになって庭を見おろ すと十間ほど向こうの木の下を あの青年が背を丸めて忍んで行く のが見えた 小林は塀の内側へぶら下がって 音を立てないように注意しながら 邸内に降り立った そしてやはり木蔭を伝いながら 五六間の隔たりをおいて怪青年 のあとを追った しばらく行くと眼の前にまっ黒 な大入道のような円塔が現われた 青年はその円塔に向かって歩いて 行く 眼をそらして塔を見るとその一階 の窓にボンヤリと白いものがうご
いていた 人の姿だ どうやら女らしい さてはあれが綾子さんだな あすこで男のくるのを待ってい たんだな 少年はさかしくも頷きながらなる べく塔に近い木の茂みをえらん で身を隠しじっと監視をつづけ た 青年はもうその窓の下に立って いた かすかにささやきかわす声が聞こ えてくる むろんその意味はわからないけれど 白い人影は窓框によりかかり青年 は背伸びをして何かヒソヒソと 話し合っていた 二たこと三こと話し合ってしばらく 声がとぎれたがその次に聞こえて きたのは今までとは違って低い ながらも妙に烈しい口調であった おやっ畜生っ ハッキリわからないがなんだか そんなふうに聞きとれた そしてその次の瞬間小林少年はい きなり脳天をうちのめされたような 衝撃を感じた 突如としてどこからか銃声のような 恐ろしい音が響いたのである ハッとしてあたりを見まわした が別に怪しい人影もない ただ窓のそとの青年がクナクナ と地上にくずおれて行くのが眺め られた 小林少年は何がなんだかわけがわ からなかった 暗さは暗し青年が倒れたように 思ったのも気のせいかもしれない ただうずくまっているのかもし れない 窓の中の人はと見るとなぜかもう 姿が見えなかった ひっそりと静まってささやき声 も聞こえなければ物の動くけはい もない 小林は不審のあまり大胆にも隠れ 場所からソロソロと這い出して 耳をすましながら窓の下へ近づ いて行った すぐ眼の前に妙な恰好で倒れている 青年の姿が見えた 死んだようにだまり込んで身動き もしない
思い切ってそのそばに這い寄り 洋服の腕にさわってみたがなん の反応も示さない 腕から胸へと手を伸ばして行く とたちまち生温い液体を感じた ハッとして手を引いて手についた 液体の匂いをかいでみるとそれ はまぎれもない血の匂いであった 青年は胸を撃たれて息絶えていた のである 小林少年はもう何を考える余裕 もなくその辺をウロウロ駈けまわり ながらいきなり大声を立てた 邸内の人々に変事を知らせるための かん高いわめき声を立てた 謎又謎 誰かいませんか 早くきてください 大変です 叫んでいるとやがて母屋の窓に パッと光がさしてどこかの戸のひら く音がしたかと思うと二三人の 足音があわただしく近づいてきた 先頭に立つ一人が懐中電燈を振り 照らしている 屈強な書生たちだ どうしたんだ おい君はいったい誰だ こんなところで何をしているんだ 刑事上がりの中年の一人が小林 少年を怪しんでどなりつけた それはあとで言います それよりもこの人が撃たれたん です 傷をしらべてください えっ撃たれたじゃあ今のはやっぱり ピストルの音だったのか おやっこれは誰だ 見たこともない青年だがどうして ここへはいってきたんだろう 懐中電燈をさしつけて調べてみる と心臓のあたりを撃たれていて 素人目にももう手のほどこしよう がないことがわかった そこへ主人の伊志田氏も手提げ 電燈を持って飛び出してきた 御主人この青年をご存知ですか 刑事上がりの男に訊ねられて伊 志田氏は死体を入念に観察していた が いや知らん 見たこともない男だ と不思議そうに答えた この子供が知らせてくれたのですが この子供もご存知ありませんか
フーンこれはいったいどうした ことだ 君はどこからはいってきたんだ この男の仲間なのかね 伊志田氏は二人を夜盗とでも考え たらしい口振りであった いいえ僕は明智探偵事務所のもの です 小林っていうんです 小林少年は伊志田氏の手提げ電 燈の光の中に顔をさし出して不服 らしく答えた え明智さんのウン少年助手がいる ということは聞いていた だが君がどうしてここにいるんだ ね そしていったいこの男はどうし たんだ 伊志田氏はまだ不審がはれなかった 小林はそこで塀そとの見張りからの 一部始終を手早く説明した フーンそれじゃこの塔の上から 懐中電燈で合図をしたものがある というんだね おい君一郎と綾子を呼んでくれ たまえ今応接間の方へ帰るから そこで待っているようにいうん だよ 書生の一人が駈け出して行った がしばらくすると息せき切って 帰ってきた 一郎さんもお嬢さんもどこを探 してもいらっしゃいません ベッドは空っぽなんです 女中たちも知らないっていうん です 何を言っているんだ そんなばかなことがあるもんか それじゃここは誰か一人見張り 番に残ってみんな部屋へ引き上げ よう そして警察に電話をかけるんだ それから一郎や綾子をもっとよく 探すんだ さあ小林君も一緒に来たまえ 伊志田氏は何かイライラした調子 で言って先に立って母屋の方へ 歩き出した それから時ならぬ家捜しがはじま った 応接間で伊志田氏が小林少年にな お詳しいことを質問しているあいだ に四人の書生と女中たちとが手 分けをして母屋はもちろん円塔
の中から湯殿や手洗所まで探しま わったが不思議なことに一郎と 綾子の姿はどこにも発見されなかった 間もなく所轄警察署から係り官 がやってくる 引きつづいて警視庁の北森捜査 課長が部下の刑事を伴って到着 する 深夜の伊志田屋敷は部屋という 部屋に煌々と電燈が点じられ庭 には懐中電燈の光が交錯して物々 しい光景を呈した 警察医の検診によって怪青年は 心臓を直射されて即死している ことが確かめられ屍体は一応邸 内の空き部屋に移された 一郎と綾子の行方は依然として まったく不明であった ピストルは塔の中から発射された らしいという小林少年の証言によって 塔の内部が綿密に捜索されたが なんの手掛りも発見できなかった 北森課長は書生や女中を一室に 集めて厳重な取調べを行なった 一郎と綾子とが外出するのを見 かけたものはないか二人の寝室 に何か怪しい物音でもしなかった かということを雇い人たちの一人 一人に当たって入念に質問した が誰もはっきりした答えのできる ものはなかった 二人の寝室には別に取り乱した 跡もないし玄関のドアはちゃんと 内側からしまりがしてあった しいて想像すれば二人は窓から 庭に出て煉瓦塀をのり越して外出 したとでも考えるほかはないの だが一郎にしても綾子にしても そんなばかなまねをするはずが なかった 一方怪青年の身元については小林 少年の証言によって北森課長の 部下の二人の刑事が深夜ながら 伊志田邸裏の空地に面した小住宅 を訪ねまわった結果案外たやすく 彼の自宅をつき止めることができた 彼は付近の印刷工場の会計係を 勤めている荒川庄太郎という二十 五歳の青年で年取った父母と三人 でみすぼらしい長屋住いをしていた 五十歳にあまる父親は同じ工場 の職工であった 父も母も伜の奇怪な行為について はまったく何も知らぬ様子であった
庄太郎は不良青年というほどでは なかったがどこか風変りなところ があって時々勤め先を休んでフラ ッとどこかへ遊びに行くことが ありまた夜遅く外出することも 珍しくなかったという 家にいる時は本ばかり読んでいて 悪友というようなものもなくこれ まで悪い噂も立てられたことはない ということであった 庄太郎の部屋の本箱を覗いてみる と主としてフランス物の翻訳文学 書がギッシリ詰まっていた いわゆる文学青年型の男らしい のである 結局その夜は怪青年の身元がわかった ほかにはこれという発見もなく 翌日あらためて捜査を開始すること にして北森課長をはじめ一同は うやむやのうちに引き上げること になったが事件はいよいよ奇怪 な相貌を呈してきた 塔上から懐中電燈の合図をした のはおそらく綾子であろうがその 合図が何を意味したのか 怪青年荒川はなんの目的で邸内 に忍び込んだのか彼を撃ったのは 果たして綾子であろうかだが青年 が綾子の共犯者とすればなぜ彼女は 共犯者を無きものにしなければ ならなかったのか もし綾子が荒川を撃ったとすれば 彼女が行方をくらました理由は わかるがしかし若い女の身でい ったいどこへ身を隠したのであ ろう それよりも不思議なのは一郎青年 の行方不明であった 彼は綾子の犯行を知り姉に同情 の余り運命を共にして家出を決 行したのであろうか だがそれは日頃の一郎の性格から はなんとなく信じがたい行動ではない か 麻酔薬 その翌日の午後になってゆうべ 顔見知りになっている北森捜査 課長の部下の三島という古参刑事 が一人の同僚をつれて伊志田家 を訪ねもう一度あらためて邸内外 の捜索をしたいと申し入れた 伊志田氏はむろん喜んで承諾した 妻を失い鞠子を失い今また一郎 と綾子が行方不明となって残る
は老母と伊志田氏とただ二人さすが 強情な伊志田氏も茫然自失なす ところを知らぬていであった 三島刑事は伊志田氏の案内によって 犯罪現場の庭から円塔内部の各 階一郎綾子の寝室と順序よく調べ て行ったがゆうべ同様何一つ手 掛りらしいものを発見することは できなかった 念のためにほかの部屋も一と通り 見て廻りたいのですが 刑事の言葉に伊志田氏はまた先に 立ってまず階下の部屋部屋を案内 した 階下には大小八つの部屋があった が七つ目までは別段の発見もなく あとには母屋から円塔への通路 に接した空き部屋が残っている ばかりであった ここは物置きになっているのです 不用の机や椅子などがほうり込ん であるのです そうでしたね ゆうべも確かここは調べたのですが 何ぶん懐中電燈の光ですから充 分というわけにはいきませんでした 三島刑事はそんなことを言いながら ドアをひらいてその部屋へはい って行った いろいろながらくた道具がゴタ ゴタと並べてある一方の隅に厚い カーテンが下がっていた 刑事はまっ先にそのカーテンに 進み寄ってサッとひらいたがひらい たかと思うとアッと叫んで思わず あとじさりをした そのカーテンの蔭の道具類のあいだ に一人のパジャマ姿の男が俯伏せ に長々と横たわっていたからだ 伊志田氏も刑事の叫び声に驚いて その場に近づいてきた そして一と目倒れている人の姿 を見ると アッ一郎だ一郎どうしたんだ と大声を立てて駈け寄った このかたが一郎さんですか そうです やられているのかもしれない 見てやってください 刑事も手伝って倒れている人を 仰向けにしてからだじゅうを調べ てみたが別に負傷している様子 もない 一郎しっかりしなさい おい一郎一郎
伊志田氏が烈しく肩を揺り動かす と一郎は何かわけのわからぬことを 呟きながら眼をひらいて不思議 そうに父の顔を見た あ気がついたな さあしっかりするんだ 一体これはどうしたというのだ なおからだをゆすって力をつける と一郎はやっと正気を取り戻した らしくもそもそと身動きをして 父に助けられながら上半身を起こ した このかたは 眼で刑事たちをさし示す 警察のかただよ それを聞くと一郎はびっくりした ように眼を見はった じゃあ何かあったのですか 綾子姉さんはどうしました なぜそんなことを聞くのだ 綾子がどうかしたのか お前はそれを知っているのか 伊志田氏は一郎が綾子の行方を 知っているのではないかと考えた いいえなんでもないのです でも姉さんに変ったことは起こ らなかったのですか 今どこにいるんですか それはあとで話そう それよりもお前はどうしてそんな 妙な所に倒れていたんだ 先ずそれを思い出してごらん どうしてここにいるのか僕にも よくわからないのです なんだか永いあいだ睡っていた ような気がしますがきょうは何 日なんですか 何日といってお前ゆうべの食事 はわしと一緒にたべたじゃないか そうですか じゃあ今はあの翌日なんですね すると僕は一と晩ここに睡って いたわけです ゆうべの十一時少し前までのこ とは覚えているんだから ホウ十一時といえばちょうどあの 事件の頃ですね 三島刑事は思わず呟いた えっあの事件ってじゃやっぱり 何か事件があったんですね それを聞かせてください 誰がやられたのです ともかくもあちらの部屋へ行こう そしてゆっくり話そう お前歩けるかい
伊志田氏がやさしく訊ねると一郎 はやっとの思いでフラフラと立ち 上がった なんだか眼まいがするけれどな あに大丈夫です 伊志田氏と三島刑事が両方から 腕を支えて応接間までたどりつき 一郎をそこの長椅子に掛けさせ た 伊志田氏の指図で女中が葡萄酒と 水とを運んできた 先ず伊志田氏からゆうべの出来事 をかいつまんで話して聞かせる と一郎は驚きの眼をみはって聞いて いたがやがて葡萄酒に唇を湿しながら 彼の記憶を語り出した 僕はゆうべ十一時少し前僕の寝室 の前を誰か通り過ぎる足音を聞いた のです みんなもう寝たはずだし手洗所 へ行くのには僕の部屋の前を通 らなくてもいいんだし変だなと思 ったのです 足音の消えていった方角には空き 部屋かそうでなければ塔の入口 しかないのですからね 僕はひょっとしたら誰か塔の中へ 忍んで行くのじゃないかと思い ました 綾子姉さんが塔の三階から懐中 電燈の信号をするらしいことは 明智さんに聞いていたのです そしてそれとなく姉さんの挙動 を注意するように言われていたん です むろん姉さんが今度の事件の犯人 だなんて考えられません そんなことはあり得ないと思う のです 誰かほかのやつが姉さんに化け ていたのかもしれません ええきっとそうです でなけりゃあんなことができる はずはありません 姉さんがあんなことするなんて 想像できないのです 一郎は何事か思い出したらしく 急に興奮の色を見せた あんなことというのは 伊志田氏が不安な面持ちで聞き 返した それはこうなんですその足音を 不審に思ったので僕は明智さん から言われていたことを思い出し ベッドを降りて音を立てないように
ソッと廊下を出てみたのです 足音をやりすごしておいてから 廊下へ出たのでもう人の姿は見え なかったけれど誰かが塔の方へ行った ことは確かなんです ですから僕も壁を伝うようにして 足音を忍ばせながらその方へ歩いて 行きました 塔の通路には電燈がついていない ので僕の部屋から一つ角を曲がる と突然廊下が暗くなります 僕はその暗い廊下へはいって行き ました そして今考えてみるとあの僕の 倒れていた物置き部屋の前あたり にさしかかった時に僕は背中の 方でスーッと空気の動くのを感じ たのです 誰かうしろに人がいるのです 僕は前の方ばかり注意していた のでうしろから人が近づいてくる けはいを感じてギョッとしました それで思わず立ち止まってうしろ を振り向こうとしたのですがそれ よりも先方がすばやかったのです 僕は誰かわからないやつにうしろ からグッと抱きしめられました それと同時に僕の鼻と口が何か 濡れた布のようなものでピッタ リ塞がれてしまったのです なんともいえぬいやな匂いでした 僕はその烈しい匂いを腹一ぱい 吸い込んでしまったのです するとなんだかからだが深い海の 底へでも沈んで行くような気持 がしました今考えてみれば麻酔 剤だったのです それから僕は怖いような美しい ようなわけのわからない夢を見つ づけていたのですが正気を失った 僕はそいつのためにあの物置き 部屋のカーテンの蔭へ連れ込まれた のに違いありません これが僕の知っている全部です 綾子姉さんが僕に麻酔剤を嗅が せるなんて考えられないことです 第一姉さんはそんな薬を持っている はずもないのですからね 一郎は語り終ってグッタリと長 椅子に身を沈めた フーンそうでしたか すると犯人はあなたが邪魔をしない ように麻酔させておいてそれから 塔にのぼって信号をはじめたわけ ですね
その信号に応じて荒川という青年 が塔の下まで忍んでくる それを犯人が何かの理由で射殺した という順序ですね しかしそれにしてもどうもわからない ところがある あなたもおっしゃるようにお嬢 さんがあなたを麻酔させたり荒川 を撃ったりなさるというのはまった く想像できないことですからね 三島刑事が眉に皺をよせて小首を かしげながら考え深い調子で言う そうです わたしも綾子がそんなまねをする とはどうにも考えられない 明智さんは綾子が塔にのぼって 信号しているのを見たというの だが何かそこに間違いがあるの じゃないかと思うのです その時も綾子を呼んで明智さんの 前で充分問いただしたのですが 綾子はまったく覚えがないという のです 自分の娘を庇うわけじゃありません がどうも綾子が嘘を言っている ようには思われぬ それに第一あの子が母や妹を殺す なんてそんなばかばかしいこと があるわけはないのですからね 伊志田氏はゆうべそのことが小林 少年の口から漏れて以来綾子が まるで犯人のようにあつかわれている のが忿懣に耐えないのであった いずれにしてもお嬢さんの行方 を探さなければなりません 犯人がお嬢さんをどこかへ連れ 去ったとすれば一刻もぐずぐず してはいられないわけですしもし そうでないとしてもお嬢さんさえ 探し出せばおそらくあの荒川という 不思議な青年のことも何かわかる かもしれません この際なにはおいてもお嬢さんの 行方を突きとめるのが第一の急 務です しかし綾子がどこへ連れ去られた のかまったく手掛りもないのです からねえ 伊志田氏が憮然として言うと三島 刑事は気の毒な父親を力づける ようにそれを打ち消した いやまだ失望なさることはありません われわれは捜査らしい捜査はしていない のです これからですよ
それには又いろいろ手段もある のです 例えばですね犯人がお嬢さんを 誘拐したとすればいくら夜ふけ でもまさか担いで行くわけには いきませんから必ず乗り物を利用 しているに違いありません おそらく自動車でしょう ですから先ず自動車のガレージ なり運転手なりを調べてみるという 手段があるわけです それからこの付近の通行人を調べる 方法もあります 夜ふけのことですから町内の夜 番とかシナソバ屋とかですね また付近の住宅を虱つぶしに調べ て行けばまだ十二時前だったの ですからこの辺を歩いていた人 がないとも限りません その中にお嬢さんをつれた怪しい 人物を見かけたものでもあれば それが出発点になってだんだん 捜索の歩を進めて行くことができる のです われわれはこれからすぐその方面 の調査をはじめてみようと思う のですよ 綾子の行方 ちょうどそのとき書生がはいって きて三島刑事に北森捜査課長から 電話がかかってきたことを告げ たので刑事は中座して電話室へ 立って行ったが間もなく明かる い顔になって戻ってきた やっぱり僕の考えた通りでした 自動車が見つかったのですよ えっ自動車が 伊志田氏と一郎青年とがほとんど 同時に叫ぶように聞き返した そうです うまいぐあいに向こうから名乗って 出たやつがあるのです ゆうべの事件が夕刊に出たのを見て たったいま警視庁へ訴えてきた 運転手があるんだそうです その運転手をここへよこしてもらう ことにしました 警官がつき添ってすぐそちらへ行く からということでした 綾子を乗せたというんですか ええそれらしい洋装の若い女を この付近で乗せたというんだそう です 服装もよく合っていますし時間 もちょうど十一時少し過ぎだった
というのです 犯人に連れられていたのですか それが妙なんです その女は一人きりで誰も連れて はいなかったと言っているのです この点が少し腑に落ちませんが しかしほかのことはよく符号しています でどこへ行ったのです 行く先は 芝の高輪の辺だというのですが 運転手も町の名を知らないのです もう一度行ってみればわかるだろう というのだそうです その女はどこへとも言わないで ただ品川の方角へ走ってくれと 命じて高輪辺で突然車を止めさせる とここでいいからといって降りて しまったのだそうです その運転手は自分の自動車に乗って 警視庁へ出頭しているというの でそれじゃ一度ここへきてもら ってわれわれがその車に乗って ゆうべ通った道をもう一度走らせて みようということになったのです 伊志田氏父子にとってそれは吉 報というよりはむしろ凶報のように 感じられた 綾子がただ一人で自動車に乗った とすれば想像していたような誘拐 ではなく自由意志と見るほかはな くしたがって彼女は逃亡したということ になるからであった ああやっぱり綾子は恐ろしい罪 を犯していたのであろうか その罪の発覚を恐れて身を隠す 決心をしたのであろうか 伊志田氏と一郎とはそれを口に 出して言うことはできなかった が 不安に耐えかねて青ざめた顔を見 かわすのであった それから三十分ほどのちその運転手 が自分の車に監視の警官を乗せて 伊志田邸に到着した 三島刑事は運転手を応接間に呼び 入れ伊志田氏に綾子の写真を借り てそれを見せると その娘さんはなんだか顔を隠す ようにしていたのではっきりした ことは言えないけれどこの人と よく似ていたように思う との答えであった なおいろいろ質問したが電話で 聞いていた以外にはこれという 新しい申し立てもなかった
そこで二人の刑事は伊志田氏に 暇を告げ監視の警官と共にその 自動車に乗って綾子らしい女の下 車した場所を確かめるために出発 した 途中別段のこともなく車は京浜 国道を一直線に走って高輪を過ぎ 品川に近づいていた 確かここいらの横町へ曲がったん です あそうだあの薬屋の看板に見覚え があります あの横町でした 運転手は半ば独りごとのように そんなことを言って車を横町へ 乗り入れたがゆるゆると運転して やや一丁ほども進んだころ ここです このポストです ポストを越してすぐ止めよと言われ たんです ちょうどここいらだったと思います 町のまん中に車がぴったり止ま った で君はその女がどちらへ行った か気がつかなかったのかね 三島刑事が訊ねると運転手は頭を かいて さあそれがわからないのですよ なんでもあちらへ歩いて行った ように思うのですが僕はガレージ へ帰る時間が迫って急いでいた ものですから そのころこの辺の商店はまだ店 をあけていたかね おおかた閉めていました でもいくらかまだ戸締まりをしない 店もあったようです ともかく降りてみよう 君はここで待っていてくれたま え 三島刑事は同僚の刑事を促して 車を降りその辺の商店をジロジ ロ眺めながら歩き出した 君女はここで何をしたと思うね 一つ逃亡した娘の気持になって 考えてみようじゃないか 友だちの家がこの辺にあるんじゃない でしょうか それとも宿屋かな 若い刑事が小首をひねりながら 答えた この辺に宿屋はないよ 友だちの家というのもなんとなく 腑に落ちない
僕はもっと別のことを考えてい るんだよ あの娘は何よりも先ず行方をくら まそうとしたに違いないね それにはどんな素人でも第一に 気づくことがある ああここだ 僕はさっきからこの店を探して いたんだよ あの娘はここへはいったに違い ない 三島刑事が立ち止まったのは一軒 の古着屋の前であった さすがに老練な刑事は逃亡者の 心理を解していた 逃亡者は何よりも彼自身の服装 が気になるのだ 服装さえ変えてしまったら人眼 をくらますことができると考える のだ 刑事はツカツカとその店にはいって そこに坐っている主人らしい老人 に肩書のある名刺を出した 少し訊ねたいことがあるんです があなたのところはゆうべ十二 時ごろまだ店をあけていました か へえその頃まであけていたように 思いますが 老主人は商売がら警察の取調べ には慣れているのでさして物おじ するふうもなく答えた たぶん十一時半から十二時までの あいだだと思うが若い女の客は なかったでしょうか 洋装をした二十歳ぐらいのお嬢 さん風の娘なんだが あああれですか お見えになりました わたくしもなんだか変だと思い ましたがお客様ですからお断わり するわけにもいきませんので その娘は何を買ったのです 銘仙の袷と帯とそれに襦袢から 足袋まで一と揃い売りました ここで着更えをしたのではありません か いいえ包みにしてお持ちになりました 仮装会があるんだとかおっしゃ いましてね けさになって上総屋というこの 並びの履物屋さんに聞いたのですが その娘さんは手前の店を出てから その上総屋さんで草履を一足買って 行ったらしゅうございますよ
わたくしもあとになってなんだか 変だと思っていたところでございます 三島刑事の想像は見事に的中した やっぱり逃亡者は先ず変装のこと を考えたのだ おそらく着物と草履を買い求めた 直後どこかで公園の闇の中とか もしくはソバ屋の二階というような 場所で着更えをしたのであろう 刑事たちは古着屋の売ったという 着物と帯の柄を手帳に控えて一 応自動車に戻ったがそれから先 の足取りを確かめるのがまた一 と仕事であった さて着更えをすませた娘さんが どこへ行ったと思うね 僕は今度こそ宿屋だろうと考える 田舎娘か何かに化けて安宿に泊ま ったんだね 三島刑事は同僚に話しかける形式 で実は自問自答するのであった 本来なれば宿屋なんかに泊まらない ですぐ汽車に乗って高飛びしたい ところだが東京の駅はどこへ行って も十二時すぎに発車する汽車はない 夜の明けるのを待たなければならぬ 夜更けに泊まって怪しまれない 宿屋といえばさしずめ駅前の旅館 だ 駅前なれば翌朝になって汽車に乗る のにも便利なわけだからね そこで僕は娘さんが目ざしたのは 品川駅だと推察するんだ ここから品川駅はすぐなんだから ね わざわざここまできて東京駅や 新宿上野などへ戻るということは 先ず考えられない 高輪の古着屋を選んだのはただ 品川に近いからなんだ どうだいこの僕の考えはあの娘 さんは品川駅のそばの安宿に泊ま ったのじゃないのだろうか そうですね どうもその辺が図星らしいですね 若い刑事は先輩の想像力に感服 したように合槌を打った じゃ品川だ 駅の近くの旅人宿を片っぱしから 調べるんだ 運転手君迷惑ついでに品川駅までも う一と走りしてくれないか ようござんす こうなったからにはどこまでも ご用をつとめますよ
運転手は気さくな男であった ホテルなんかじゃない あの地味な和服は安ホテルにも しろホテルへ泊まるというがら じゃない やっぱり日本宿だ なるべくみすぼらしい日本宿を探 すんだ 二人の刑事は品川駅の付近で自動車 を降りると交番の警官に聞き合わせて 次々と旅人宿を調べて行った 品川駅近くには旅館が軒を並べ ているというわけではないがしかし 表通り裏通りにチラホラと点在 して十数軒の旅人宿がある 尋ね尋ねて十一軒目とある裏通り の尾張屋という古風な日本旅館 には玄関をはいらぬ先からなんとなく それらしい匂いが感じられた 土間に立って名刺を出すと五十 あまりの番頭がうやうやしく式 台にうずくまった 三島刑事は声を低くして綾子の人 相風体を告げゆうべ遅くそういう 娘が泊まらなかったかと訊ねた へえそのお方ならお泊まりでございます が何か 番頭はニヤニヤ笑って揉み手を した えっ泊まっているじゃまだいるんだ ね 三島刑事は思わず弾む声を押える のがやっとであった この喜びは刑事でなくては味わ えない へえ二階でお寝みでございます お加減が悪いとおっしゃって 君間違いないだろうね 確かにいま言った着物を着てい たかい へえ着物も帯もおっしゃる通り でございます 宿帳は 老番頭がさし出す宿帳にはなんだか 筆蹟を隠したようなぎごちない 字で 静岡県三島町宮川町五六井上ふみ 二十歳 としるしてあった 寝ているんだね へえ それじゃ一つその部屋へ案内して くれないか 少し調べたいことがあるんだ へえそれではどうぞ
老番頭はすこしもためらわずみず から案内に立った 二人の刑事は靴をぬいで足音を 忍ばせるようにして黒光りのする 広い階段を番頭のうしろから上 がって行った 狂気の家 二人の刑事は案外やすやすと目的 を達した幸運を喜びながら番頭を 先に立てて二階の綾子の部屋を 襲った 三島刑事の指図で先ず番頭が襖 をあけた ごめんくださいまし 猫撫で声で静かに部屋へはいって 行ったが二たこと三ことなにか 言っていると思ううちにおやっと いう唯ならぬ叫び声が聞こえて きた 旦那もぬけの殻です これごらんなさい こんなものでまるで寝ているように ごまかしてあるんです 刑事たちが踏み込んで調べてみる と蒲団を人の寝ているような形 にふくらまし頭のところには丸 めた座蒲団を入れてそれに手拭 をかぶせてあった 綾子の持ち物は何一と品残って いない さっそく係りの女中を呼んで訊 ねてみるとこの部屋の客はゆう べおそく少し加減が悪いので朝 寝坊をするから昼頃まで起こさない ようにと女中に言いつけたことが わかった でもあんまりお眼ざめにならない のでさっきから二度ばかり襖を 細目にあけて覗いてみたのです けれど向こうをむいてよくおよって いらっしゃるようでしたのでその ままにしておいたのです まさかこんな細工がしてあるとは 気がつかなかったものですから 女中はきまりわるそうに弁解する のであった 玄関の履き物を調べさせてみる と綾子のはいてきた草履がいつ の間にか無くなっていることが わかった 結局綾子はゆうべおそくかけさ あけがたに宿の者の眼を盗んで 草履を持ち出し裏口からでも立ち 去ったものとしか考えられなかった
三島刑事は最後の土壇場でまんま と裏をかかれた口惜しさにやっき となって付近を調べまわったが 綾子らしい姿を見かけた者は一人 もなかった 足跡もなければ遺留品もなく付近 の人にも見られていないとあって は捜査の手段も尽きたのである がなお念のために品川駅の改札 係などに綾子の風体を告げてその 朝の列車に乗り込まなかったかと 訊ねまわってみたが誰一人そういう 娘を記憶にとどめているものは なかった かくして伊志田綾子は巧みにも この世から姿を消してしまった のである 警視庁は東京全市はもちろん東海道 沿線の各駅の警察署に綾子逮捕 の手配をしたことはいうまでもない が二日たち三日たってもどこから も吉報はもたらされなかった 信じがたいことであるが二十歳の 小娘はどんな大犯罪者も及ばぬ 恐ろしい知恵を持っているように 見えた 警察を出し抜き名探偵明智小五郎 を病院のベッドに呻吟せしめまんま と三重の殺人を犯してついに気体 の如く消え失せてしまったのである 綾子の美貌はあらゆる新聞に写真 版として掲げられこの美しい娘 がと全読者を仰天させ戦慄させ たが世間の騒ぎもさることながら 当の伊志田家の人々の悲歎と焦 慮とはその極点に達しあの陰々 たる赤煉瓦の建物の内部は今や この世ながらの地獄であった 狂気の世界であった さすがに強情我慢な主人の伊志田 氏も妻を失い子を失いしかもそれ らの殺人の下手人が綾子であった と聞かされ確証を見せつけられ その綾子は今どことも知れぬ他 国の空にジリジリと狭まってくる 警察の網の中にただ一人身を悶 えているのかと思うと何をどう 考えていいのだか物思う力も尽 きはてただ茫然と狂気の一歩手 前に踏みとどまっているばかり であった 七十八歳の祖母は今やまったく 狂人であった 彼女は何を思ったのか古い白無垢 の着物を着て昼も夜も仏間に坐
りつづけていた 仏壇の扉を左右にあけ放ちなん 本となくロウソクを立てつらね て一心不乱に経文を読誦しながら 絶え間なく伏せ鉦を叩きつづけ 誰が言葉をかけても憑きものが したように振り向きもしなかった 一郎青年は一郎青年で負傷がや っとなおったかと思うと麻酔薬 に倒れて一夜を物置きにすごした 疲労からほとんど放心状態で昼 もベッドに横たわっていた だが伊志田一家の不幸はそれで 終ったわけではない 綾子が尾張屋を抜け出したことが 確かめられてから三日目の夜又 しても恐ろしい呪いの影が取り 残された三人の上におそいかか ってきた その夜八時頃伊志田氏の書斎の 卓上電話のベルがけたたましく 鳴り響いた 居合わせた伊志田氏が受話器を取る と突然妙にしゃがれた笑い声が 聞こえてきた 伊志田さんお前さんが今どんな 気持でいるかおれにはよくわかる よ ハハハハハおれは愉快でたまらな いんだ もう少しでおれの目的がすっかり 果たせるのだからね というのはねつまりおれの仕事 はお前さんの不幸はまだ終って いないという意味だよ ハハハハハ想像がつくかね おれのほんとうの相手はお前さん なんだよ これまでの仕事はいわばその前奏曲 みたいなものさハハハハハせい ぜい用心するがいいぜ 切れぎれにそんな意味のことを 言って声が途絶えてしまった ひどくしゃがれた声で男とも女 とも老人とも青年とも見当がつか なかった 伊志田氏はそれを聞くとほんとう に気が違いそうになった 殺人犯人から電話がかかってきた のだ しかもその犯人というのは娘の 綾子としか思われないのだ ああなんということだ たとえあの娘に地獄の悪鬼が憑 いているにしても正気を失って
悪鬼の命ずるままに行動している にしてもこんな恐ろしいことが 世にあり得るのだろうか 伊志田氏は自分の頭がどうかして ほんとうの声ではなくて幻聴にお びやかされているのだとしか考え られなかった だがそれが幻聴でなかった証拠 にはその同じ夜伊志田氏は悪魔の 声の主を見たのである 例の影のような黒覆面の人物を まざまざと見たのである 九時半ごろであった 伊志田氏は就寝前に入浴する習 わしだったのでその夜も湯殿の タイルの浴槽に浸っていた 充分洗い清めたとはいえ亡妻の 血を流したあの浴槽である 別に湯殿を造るつもりではあった が重なる不祥事のためにまだその 暇がなかったのだ 廊下には書生が見張り番を勤めて いた 窓のそとの庭もほかの書生が巡 廻をおこたらなかった 伊志田氏は浴槽に浸ってガラス 窓のそとの闇を見つめていた 今しがた書生の姿がその前を歩いて いったばかりだ 怪しい者がいるはずはない だがそう信じながらもおびえた 眼を闇に向けないではいられなかった するといま立ち去ったばかりの書 生の黒い影が窓のそとへ戻ってくる のが見えた どうしたのかと眺めているとその 黒い影は必要以上に窓に接近して きた 接近するにつれて浴室の電燈の光 でそのものの姿がだんだんハッキリ した おやっあいつ気でも違ったのじゃないか 伊志田氏は吹き出したくなった どういうわけか腹の底からおか しさがこみ上げてきた 書生はインバネスのようなもの を羽織って黒い布で頭を包んで いた そしてその布の中から眼だけを出して じっとこっちを見つめながら近 づいてきた 伊志田氏の顔から笑いの影が消えて 行った そしてなんとも言いようのない 恐怖の色が浮かんだ
覆面の人物は鼻の頭がガラスに 着くほど窓のそとに接近していた 黒布をくり抜いた二つの穴から 誰かの眼が瞬きもせず伊志田氏 を睨みつけていた さきほど電話をかけたやつが姿 を現わしたのだ ではこのガラス窓にくっついている まっ黒な怪物があの綾子 なのであろうか 伊志田氏がとっさにそれを考え たことはいうまでもない 父は浴槽に首だけを出し娘は覆面 に顔を包んでガラスのそとから 父を覗いている この気違いめいた怪談めいた事実 が伊志田氏を極度に惑乱させた 恐ろしいけれど叫んでいいのか どうかわからない 書生が来て怪物を捕えてくれる ことが望ましいようにも思われ 絶対にそんなことがあってはな らないようにも思われた だがガラスのそとにいるやつは 人情を解しないのだ 何か途方もないものに憑かれている のだ だまっていたらいきなりピストル を発射するかもしれない そこにいるのは綾子じゃないのか 伊志田氏は熱病にうなされている ような声で気違いめいたことを 叫んだ 相手はだまっていた ただ黒布の穴の両眼が異様に光 っているばかりであった たっぷり一分間ほど異様な睨み 合いがつづいた 覆面の人物の気持は推察の限り ではないが伊志田氏の方はその 一分間に四五日分の思考力を一 気に使い尽したような感じでたち まちゲッソリと痩せ衰えるほど の疲労を覚えた 伊志田氏は湯の中に浸ったまま 身動きもできないでいたがいよい よ思い切って浴槽から飛び出そう と考えた だが彼がそれを実行する前に窓の そとの怪物が突然妙な声で笑い 出した 内証話のようなかすれ声で嘲ける がごとく憐れむがごとくともすれば 泣いているのではないかと思われる ような不思議な声で笑いつづけ
た 伊志田氏は怪物がたとえわが娘 にもせよこの人でなしの笑い声 の恐ろしさに慄え上がった 彼はいきなり大声に救いを求め ながら浴槽から飛び上がり裸体 のまま廊下の方へ走り出さない ではいられなかった たちまち書生たちが駈けつけて きた 庭にも書生の叫ぶ声が聞こえた そして騒がしい怪物追跡がはじま ったが覆面の人物はいつの間に どこをどうして逃げ去ったのか 庭じゅうを探しまわってもつい にその姿を発見することができ なかった 伊志田家の娘としての綾子は行方 をくらましてしまった そして再び帰ってきた時にはまった く悪魔と化身していた いまわしい覆面の怪物として邸 内をさまよった 彼女はなぜ家出したのか それは一切の人界の絆を断ち切って 悪魔になりきってしまうためでは なかったか そういう考えが伊志田氏は元より 一郎青年を恐怖と悲歎のどん底 におとしいれた 翌朝このことが警視庁に報ぜられた のはいうまでもない そして北森捜査課長の計らいで 伊志田家の警戒はさらに一そう 強化されたが黒い怪物は物質界 の法則を無視するかのごとく思い もよらぬ時思いもよらぬ場所へ その無気味な姿を現わした ある時は着替えをするために洋服の 戸棚をひらくとかけ並べた洋服 にまじって黒い釣鐘インバネス が下がっていた よく見るとそれには黒い頭部が ありくり抜いた二つの眼が光って いた そしてあの内証話のような笑い 声を立てた しかし伊志田氏はその怪物を捉 えることができなかった 黒いやつはピストルをつきつけて 老人のような笑い声を立てながら 立ちすくむ伊志田氏を尻目に悠々 と部屋のそとへ姿を消してしまった そして書生たちが現場に駈けつけた ころには例によって怪物は蒸発
したかのごとく影も形も見せない のであった ある夜ふけ伊志田氏が何か妙な 物音にふと眼を覚ますと寝ている ベッドの下から黒い影のようなもの がスーッと這い出してきて覆面 の頭をこちらに向けて嘲けるような 笑い声を立てた またある時は伊志田氏の書斎の 入口のドアの上の通風窓に黒い 人影が猿のようによじのぼって そこからじっと部屋の中を見おろ していた 一郎青年はたまらなくなってある日 病院の明智小五郎に電話をかけた 先生助けてください 僕はもうどうしていいかわから なくなりました 彼は電話口で悲鳴を上げた その声には何かしら狂気の前兆 のようなものが感じられた あいつがまた戻ってきたんだろう 明智の静かな声が聞こえた 傷もほとんど癒えてもう電話を かけられるようになっていたのだ そうです 先生もお聞きになったのですか ウン北森君が知らせてくれた だが知らせてくれなくても僕には わかっていたのだよ なぜといってあいつは僕の所へ も電話をかけてきたんだからね えっ先生に電話を ウン例の老人とも若者とも判断 のつかない変な声でね いよいよ悪魔の事業の最後の段階 にはいったのだと知らせてきた よ 最後の段階ですってそれは それは多分一家の中心である君 のお父さんとそれから君自身への 危害を意味するのだろうと思う そうです そうに違いないのです 先生助けてください あなたはいつ退院なさるのですか あさってあたりお許しが出そう だよ そうすればすぐ君のところへ行って あげる あさってですって そんなに待てるでしょうか 僕はなんだかあしたまでも生きてい られないような気がします 充分用心していたまえ
きょうとあすと二日間君が自分で 身を守りさえすればその次の日 には僕が必ず犯人を捕えてみせる 君に約束しておいてもいい今度 こそ間違いないよ 明智が子供らしいことを言った 日頃の彼の調子ではない 一体なにを考えているのであろう それはどういう意味でしょうか なにかお考えがあるのですか ウン少し考えていることがあるん だよ しかし先生僕は犯人が捕えられる ことを喜んでいいんだか悲しん でいいんだかわからないのです 犯人が誰だかということはもう 間違いないのですからね 君はそれを少しも疑わないのかい 確信しているのかい ええできるなら信じたくないの ですけれどこんなに不利な証拠 が揃っちゃもう疑うわけにはいかな くなりました 一郎は悲しげに溜め息をついた しかし僕はまだ信じてやしないんだよ そんなことは人間の世界には起 こり得ないと思うんだ 神が許さないと思うんだ どこかに非常な錯誤がある 僕は必ずその錯誤を発見してみ せるつもりだよ ああ早く病院を出たいもんだな あ 先生それを聞いて僕はなんだか 少し明かるくなったような気が します でもあさってというのは待ち遠 しいですね 僕たちはそれまで無事でいられる でしょうか 多分大丈夫だろうと思うよ なぜといって今度はあいつはただ 姿を見せるだけで少しも危害を 加えようとしないじゃないか あいつはしばらくのあいだ君たちの 恐怖を楽しむつもりなんだよ そういえばそうですね しかしいつ気が変らないとも限り ませんし だから充分用心するんだ 書生たちのほかに警視庁からも 人が行っているんだろう ええそれは物々しすぎるくらい です
じゃ君たちはいつもその人たち をそばへおくようにするんだ お父さんにしろ君にしろ一分間 も一人きりにならないようにす るんだ なあに心配することはないよ 僕の考えが間違っていなければ きょうあすのうちには何事も起こ らないはずだ 僕が請合って上げてもいい 明智は何か頼むところあるものの ごとくきっぱりと言いきるのであった この電話による奇妙な会話は冷静 な第三者にはなんとなく腑に落ち ぬところがあった この重大な事柄を電話などで話し 合う一郎も非常識であったがそれ に応じて退院の日取りだとかその ほか大切なことを軽々しく口にする というのは日頃の明智に似ぬ軽 率な態度であった だが名探偵の言動にはいつも裏 がある この一見軽率に感じられる会話 にも何か深い裏の意味がこもって いたのではなかろうか 最後の犯罪 さてその翌朝八時頃のことである 伊志田氏の寝室の前の廊下に一脚 の肘掛椅子が置かれそこに書生 の中では最年長者の刑事上がり の男がグッタリと腰かけて正体 もなく眠っていた 彼は徹夜して主人の部屋を守護 する役目であったがそれがまるで 酒にでも酔いつぶれたように鼾 さえかいて眠っているというのは なんとも変なことであった そこへ階段に足音がして別の書 生が交代のためにやってきたが 一と眼そのありさまを見るとびっくり して肘掛椅子に駈け寄った おいどうしたんだ 起きたまえ もう八時だよ 肩を小突かれて年長の書生は何 かわけのわからないことをムニャ ムニャ言いながら眼をひらいた おいしっかりしたまえ 何を寝ぼけているんだ ゆうべは別状なかったのかい なおも小突きまわすとやっと正 気づいたらしく おや朝だね いつの間に眠ったんだろう
変だなあ 寝言のようにつぶやくのを一方 はたしなめるようにどなりつける おい君大丈夫かい ご主人は別状ないのか 変だな 頭がズキズキ痛むんだ どうしたんだろう 君すまないがご主人の様子を見て くれ なんだかおかしなあんばいなんだ これは唯事でないと感じたので あとからきた書生はいきなり主 人の部屋のドアをノックしてソ ッとそれをひらいてみた おいベッドは空っぽだぜ えっご主人がいないのか フラフラと立ち上がって部屋の中へ はいってみたが伊志田氏の姿はどこ にも見えなかった 騒ぎを聞きつけてほかの書生や 刑事なども集まってきた 一同で手分けをして書斎その他の 主人のいそうな部屋部屋手洗所 から湯殿まで探しまわったが伊 志田氏はまるで神隠しにされた ようにどこにも姿を見せないの であった ところがこの椿事を一郎に知らせ ようとその部屋の前へ行った書 生がそこの見張り番もグッタリ と眠り込んでいるのを発見した ので騒ぎは一そう大袈裟になった 一郎の部屋にはいってみるとその ベッドも空っぽであることがわかった 主人ばかりでなく一郎青年まで 神隠しにされてしまったのだ 残る家族といっては七十八歳の 祖母ただ一人あの人もやられている のではないかと急いでその部屋 へ行ってみたがここの見張り番 はちゃんと起きていて老人は無事 であることがわかった 隠しておこうと思ったのだけれど この騒ぎを隠しおおせるもので なく老人は間もなく二人の神隠し を気づいてしまった そして半ば狂せるがごとき彼女は 泣き悲しむかわりに一そう神が がりのようになって銀髪を逆立て 眼を血走らせながら例の仏間に 駈け込んでわけのわからぬ経文 を高々と読誦しはじめるのであった あらためて屋敷内外の大捜索が 開始された
前に物置きに一郎が倒れていた 例もあるので部屋という部屋は 残らず隅々までも探しまわり三階 の円塔の内部はいうまでもなく 母家の縁の下まで調べ広い庭園 も草を分けるようにして捜索した が二人の姿はもちろん足跡その他 手掛りになるようなものは何も 発見されなかった 主人の寝室にも一郎の寝室にも ゆうべ十一時ごろまではなんの 異状もなかった というのはそのころまで二人の 部屋の見張り番が正気でいたから である 二人が一度はベッドに寝たことも シーツの乱れなどから明白であった だが見張りの書生は二人とも十 一時ころから朝までのことをまった く知らなかった その少し前女中の運んでくれた 紅茶を飲んだのだがどうやらその 中に眠り薬がはいっていたらしい のである 女中が取調べられたことは言うま でもないが彼女は伊志田家に二年 も勤めている素性のよくわかった 女で黒覆面の共犯者とは考えられ なかった 眠り薬を入れたものはほかにあって 彼女は何もしらずただそれを運ん だばかりのように察せられた では眠り薬を入れたのは何者で あったか 台所へは誰でも出入りできるの だから家内の者すべて疑えば疑 えぬことはなかったがさしずめ 三人の女中が厳重な取調べを受け た しかし女中たちはこれといって 疑わしい点もないように見えた 女中をのぞくとあとは祖母と書 生たちであったが老人には何を 訊ねてもただ一心不乱に経文を つぶやくのみでまったく要領を得 なかったし書生たちのうちに犯人 がいようとも思えなかった 次には二人がどこから出て行った か或いは連れ去られたかという 点が問題になったが不思議なことに 玄関も裏口も出入りのできる場所 はすべて内部から戸じまりがして あって書生や女中が起きるまでは どこにも異状がなかったことが 確かめられた
すると窓からでも出たのであろうか なるほど階下に寝室のある一郎 は窓から出ることもできたであ ろうが二階の伊志田氏が高い窓 から飛び降りたとはちょっと想像 できないことであった つまり二人は一夜のあいだに蒸発 し或いは溶解してしまったかの ような感じであった 見張り番が眠り薬を飲まされて いた点から考えてもむろんこれは 例の怪物の仕業に違いなかった だがあの黒覆面の曲者が二人の 大の男を少しも物音も立てずやす やすどこかへ連れ去ったとはい ったいどんな手段によったので あろう 第一出入口すらもわからないの である 怪物は人間界の法則を無視した 妖術を心得ていたのであろうか その黒覆面の怪物とは何者であったか その正体は二十歳を越したばかり の美しい娘ではなかったか 人々はそれに思い当たると慄然 として肌の寒くなるのを感じないで はいられなかった 彼女は父親と弟とを盗み去った のだ なんの目的でいうまでもないこれ までの例でもわかるようにその 生命を奪うためである ああかくのごときことが果たして 人間界に起こり得るのであろうか もしかしたらこれは現実の出来事 ではなくて伊志田屋敷の異様な 建物の妖気が人々を一場の悪夢 に誘いこんでいるのではあるまい か だがこれらの取調べには主として 警視庁から出張していた刑事たち が当たったので書生たちはまだ 未練らしく庭のあちこち木の茂 みなどを覗き歩いていたのだが そうして歩きまわっているうち に書生の一人がふと妙な顔をして 立ち止まった おいどうしたんだ シーッ静かにしたまえ 君あれが聞こえないか ほらなんだか人の声のようじゃないか 言われて聞き耳を立てるといかに も遠くから人の叫び声のようなもの が聞こえていた
誰かきてくれって言ってるよう だね 救いを求めているのだ だがいったいどこだろう ひどく遠いようだが塀のそとじゃない だろうか いや塀のそとじゃない どこかこの辺だ 地の底から聞こえてくるような 気がする えっ地の底だって 二人はそんなことを言いながら 少しずつ声のする方へ近づいて 行った あっそうだ あれかもしれない 君きたまえ 一人が何を考えたのかやにわに 走りだした わからぬながらついて走って行く と林のようになった立木のあいだ にはいって一面の雑草と灌木の 茂みの中に立ち止まった そこに一つの古井戸が口をひらいて いた 四角に石を畳んだ井戸がわに一面 に青苔が生えている 書生はいきなりその石に手をついて 井戸の中を覗きこんだ 誰だ 君は誰だ すると深い底から陰にこもった 声がのぼってきた 僕だよ 一郎だよ 早く助けてくれたまえ 底は暗くて人の姿もよくは見え ぬがその声は一郎青年に違いなかった アッ一郎さんだ 待ってください いま縄を持ってきますからね しっかりしていらっしゃい どなっておいて駈け出して行った がやがてほかの書生たちといっしょ に長い麻縄を用意して戻ってきた 仔細を訊ねている余裕はない ともかく助け出さなければならぬ 四人の書生が手分けをして一郎 救い出しの作業がはじまった そして二十分ほどかかってグッタ リとなったパジャマ姿の一郎を ようやく井戸がわのそとへ引き 上げることができた 古井戸の底には膝から下ほどの水 が溜っているばかりで溺れる心配
はなかったがしかし一郎はなぜ か息も絶えだえに疲れはてていた 四人で抱きかかえて彼の寝室へ 運び飲みものを与えて介抱する うち一郎はやや元気を回復して 少しずつ話ができるようになった 寝室へは刑事たちも集まってきた しちょうどそのころ急報を受け て駈けつけた北森捜査課長や三島 刑事などの一団も到着してすぐ さま一郎の寝室へはいった それらの人々の質問に答えて一郎 青年が語ったところをかいつまん でしるせば ゆうべ二時ごろふと眼をさます と枕もとに例の覆面の怪物が立 っていた ハッとしてベッドを飛び降りよう としたが怪物は恐ろしいすばやさ で彼の上にのしかかり布を丸めた ようなものをいきなり口と鼻の上に おしつけた このあいだと同じ匂いの麻酔剤 であった 一所懸命もがいているうちに気が 遠くなってそれからどんなことが 起こったのか少しも記憶しない がつい今しがた悪夢から醒める ように気がつくと暗い穴の底の水 の中に浸っていたのでびっくり したがどうやら井戸の底らしい のでもしや自宅の庭の古井戸ではない かと考えともかく救いを求める ために大声に叫び出したということ であった であなたは一人だったのですね お父さんのことはご存知ないの ですね 北森課長が訊ねた えっ父がどうかしたのですか 一郎はサッと不安の色を浮かべ て叫ぶように聞き返した 隠しておくわけにもいくまいから お話ししますがね お父さんも同じような目に遭われた のです えっ父もでどこにいたのです いやまだそれがわからないのです 一同で充分探したらしいのですが どこにも姿が見えないというの です しかしあなたの落ちていた古井戸 を見逃がしていたくらいですから もっとよく探せばどこかお屋敷 の中にいらっしゃるかもしれません
もう一度捜索させてみることに します ええ是非そうさしてください しかし父は生きているでしょうか もしや 一郎は父の無残な死体をまざま ざと眼に浮かべたかのようにま っ青になって唇を震わせながら 不安の言葉をつぶやくのであった それから新たに老練な三島刑事 を加えて再び邸内外の大捜索が 開始されたがやがて三十分ほども たったころ一人の刑事が一郎の部屋 にいる捜査課長のところへ息せき 切って飛びこんできた おお伊志田さんが見つかったのか 北森氏が思わず立ち上がって訊 ねると刑事は手を振りながら そうじゃありません 犯人らしいやつを見つけたのです すぐお出でください 廊下をウロウロしているところ を引っ捕えたのです と叫ぶように答えた 闇を這うもの 北森課長はそれを聞いてなんとなく 腑に落ちぬような感じがした あれほど手を尽した捜索の網に 一度もかからなかった魔法使い のような曲者がこんなにやすやす と捕えられるというのはほとんど 信じがたいことであった しかしいくら信じがたいにせよ 稀代の殺人鬼が刑事たちの包囲 を受けているとあっては捨てて おくわけにはいかぬ 北森氏は直ちに一郎の部屋を出て 現場にかけつけた あとに一人取り残された一郎青年 はその騒ぎを少しも知らないで 鼾の音さえ立てながら熟睡していた いくら疲労していたとはいえこの 無神経な熟睡はなんとなくただ ごとではなかった これには何かわけがあるのではない だろうか 悪魔は又しても一郎青年の上に 人知れぬ陰謀をめぐらしている のではあるまいか それはともかく北森捜査課長が 刑事の案内で現場にかけつけて みると一郎の祖母の部屋に近い 廊下にまっ黒な怪物が三人の刑事 に追いつめられて立ちすくんでいる のが見えた
刑事たちはジリジリと怪物の方 へつめよっていた 曲者はもう逃げ場もなく廊下の壁 にピッタリと身をつけてただじ っとしているばかりであった 北森氏と刑事とが加わったので こちらは総勢五人となった いかな怪物もいよいよ運のつき である 刑事たちが相手に組みつくことを ためらっていたのは飛び道具を 恐れていたからであったが曲者 はなぜかピストルを取り出す様子 も見えなかった 諸君なにをぐずぐずしているんだ 早く組み伏せたまえ 北森課長はみずから曲者に飛び かかりかねぬ勢いで叱りつける ように叫んだ その声に勇気づけられた刑事たち はもうためらってはいられなかった 口々に何か叫びながら怪物めがけ て突進して行った だがそれよりも曲者の動作はさらに 敏捷であった 何か恐ろしい物音がしたかと思う と黒い怪物の姿はアッと言う間に 刑事たちの鼻の先から消え失せて いた ちょうど曲者の立ちすくんでいた うしろの板壁に物置きの押入れ のひらき戸があった 彼はとっさにその板戸をひらいて サッと押入れの中に身を隠しピ ッシャリと戸を閉めてしまった のだ 刑事たちは相手の考えを理解する ことができなかった 自分で押入れの中へはいりこむ なんて少しも逃げ出す意味にはな らない逆に捕縛を容易にするような ものではないか さすがの怪物も血迷ったのであ ろうか だが相手の考えがどうあろうと 今はただその袋の鼠を捕えさえ すればよいのだ 先に立った刑事はすぐさまその 板戸に手をかけてひらこうとした が曲者は中からしんばり棒でも かったのかゴトゴトいうばかり でなかなかひらかない 構わないその戸をぶち破りたま え
課長の指図に刑事は勢いこめて からだごと板戸にぶつかって行った 二度繰り返すまでもなくバリバリ と恐ろしい音を立てて板戸は押入れ の中へ倒れ込んだ おやどうしたんだ 誰もいないぜ そのあとから押入れの中へ首を 突っ込んだ刑事が頓狂な声を立て た 刑事たちはつぎつぎとその中を 覗きこんだが皆あっけにとられた ように無言で顔を見合わすばかり であった 押入れの中にはいろいろな道具 類が置いてあったが人間一人隠れる ほど大きなものは何もなかった それにもかかわらず今逃げこん だばかりの曲者の姿はまるで溶 けてでもしまったように影も形 も見えないのだ 変だなあ いったいどうしたっていうんだろう 何かゾッとしたように一人の刑事 がつぶやいた 怪物は又しても得意の魔法によって 人々の眼をくらましたのであろうか だが今の世に怪談は許されない いくら怪物でも物理学の法則を 破ることはできない これには何かカラクリがあるのだ ひょっとしたらこの押入れの中に 秘密の抜け道でもあるのではない だろうか なにしろ奇人の建てた古い建物 だからそういうものもないとは いえぬ 北森課長はふとそこへ気づいた のでみずから押入れの中へはい って壁や床板をあちこちと調べ てみたが間もなく薄笑いを浮かべ ながらそとに出てきた やっぱりそうだ 抜け穴があるんだよ 誰か懐中電燈を持ってきたまえ どこへ通じる抜け穴かわからない がともかく調べてみなくちゃ やがて刑事の持ってきた懐中電 燈を受け取ると三島君君も一緒に きたまえ と言いながら課長は先に立って 押入れの中へはいった その中は三方とも板壁になっている のだが一方の隅に高さ三尺ほど
の小さな隠し戸がついていてそれが 向こう側へひらいている その奥は深さも知れぬ闇だ おそらくここは地下道の入口なので あろう やっこさんよっぽどあわてたとみ えて隠し戸の締まりを忘れて行った のだよ ちょっと手で押してみるとなん の造作もなくひらいたのだ 君用心したまえ相手は気ちがい だからね 僕は幸いピストルを持ち合わせ ているからいざといえばひけは 取らないつもりだが君は空手なん だからね 僕のうしろからついてきたまえ 北森氏は懐中電燈をうしろの三島 刑事に持たせ自分はピストルを 握って大胆にも闇の地下道へと 這いこんで行った 懐中電燈で照らしてみると上下 左右とも石で畳んだ細い地下道 で余ほど年代のたったものとみ え石畳はところどころくずれている し一面に黴とも苔ともつかぬもの が生えなんともいえぬしめっぽい 土の匂いが鼻をつく 北森氏の想像にたがわずこれは 最初この建物を建てた西洋人が 物好きからか或いは何かの秘密の 用途のためにかこしらえておい た地下道に違いない それを犯人が発見して隠れ場所 に使用しているのだ 覆面の怪物はこの邸内をまるで わが家のように自由自在に歩き まわりしかも幾度追いつめられて もかき消すように姿をくらまして いたのだがこんな抜け穴がある のではなんの不思議もないこと であった あの神変不可思議の魔法の種は ここにあったのだ 北森氏はその冷たい石の上を這い ながらふと今自分は誰を追っている のかということを考えた そしてなんとも言えぬ変な気持 になった これまでの情況証拠はすべて伊 志田綾子を指さしていた 伊志田家の家族の一員であるあの 美しい娘さんが恐るべき殺人犯人 と目されていた
するとこの冷たい暗い地下道の中 を四つん這いになって逃げて行く 覆面の怪物はやはりその美しい 綾子でなければならない ああそんなことがあり得るのだろう か 用心に用心をしながら這い進ん で行くとふと懐中電燈の淡い光 が一間ほど向こうにうごめいている 黒いものの姿を照らし出した 怪物のマントであった 足を隠すほど長いインバネスの 裾が石畳の上をすってズンズン 向こうへ這って行く 待てっ 声をかけてもひるむ様子はなかった ここまでお出でといわぬばかり に速度を早めて遠ざかって行く その黒い怪物がかよわい二十歳の 娘なのかと考えると現実家の北森 氏も三島刑事も地底の冷たい風が 運んでくる一種異様の鬼気に慄 然としないではいられなかった 地底の磔刑 地下道は案外短く四五間も進む と突然天井も左右の壁も遠ざかって 大きな部屋のような場所に出た 北森氏はピストルの引金に指を かけてまっ暗な広間に立った 三島刑事もそれにつづいて眼の 前の闇に懐中電燈の光を向けた その丸い光の中に黒いものがこちら を向いてスックと立っているの が見えた 黒覆面の二つの穴からギラギラ 光る眼が覗いていた さては曲者は二人をここまでお びき寄せておいて手向いするつもり なのであろうか 手を上げろッでないと 北森氏は相手の権幕に驚いて機 先を制するためにいきなりピストル をつきつけながら恐ろしい勢いで どなりつけた すると突然実に意外なことが起こった 覆面の曲者が爆発するように笑い 出したのである はっきりした男の声でさも快活 に笑いだしたのである こちらの二人はこの気違いめいた 出来事にあっけにとられて立ち すくんでいると曲者は悠然として 顔の覆面を取りはずしマントを 脱ぎ捨てた
その下から現われたのは若い娘 であったか それとも凶悪無残の野獣のような 男子であったか いやそこには一人の背広姿の瀟洒 な紳士が立っていた あっ君は 明智です びっくりさせて申しわけありません その紳士は明智小五郎であった 北森氏とは親しい間柄の私立探偵 であった ああこれはどうしたというのだ 覆面の怪物の正体は明智探偵であった のか すると伊志田家の殺人事件の真犯人 も彼なのであろうか いやそんなばかなことがあるはず はない 世に聞こえた名探偵の明智が意味 もない人殺しをする道理がない しかしそれにしては彼はなぜ覆面 をしたりインバネスを着たりしていた のであろう そして二人をこんな地下道など へおびきよせたのであろう 北森氏はこの奇々怪々の出来事 をどう解釈していいのかまった く途方にくれてしまった そんなことはあり得ないと打ち 消す一方からムクムクと恐ろしい 疑惑が湧きあがってきた これは一体どうしたのです 明智君君はまだ病院に寝ていた はずじゃありませんか なじるように言ってじっと相手 の顔を見つめた いやこれには複雑な事情がある のです あなた方を驚かせたのは申しわけ ありませんがどうしてもこうしなければ ならない必要があったのです あなた方をここへ連れ込む必要 があったのです 明智の弁明はまだ不充分であった それなら何も覆面なんかしない でもソッと僕に言ってくれれば いいじゃありませんか いやそれができない事情があった のです ここのうちのものに僕がきたことを 知られたくなかったのです 僕はまだ病院にいると思いこま せておく必要があったのです
それにしても君は一体その覆面 や外套をどこで手に入れたのですか まさかわざわざ新しく作らせたの ではありますまい この地下道の入口にあったのです ご想像の通りここが犯人の隠れ がなんです ここに一切の秘密があるのです 変装用具もむろんここに置いて あったのです 僕はちょっとそれを拝借したま でですよ この事件の最初一郎君が曲者に刺された 時僕はあいつをさっきの廊下へ 追いつめたのですが曲者は煙のように 消え失せてしまった そこで僕は後日あの廊下の辺を 充分に調べたのです 何かカラクリがあるに違いないと 考えて隅から隅まで調べたのです するとあの押入れの中の秘密戸 を発見した そしてこの地下室を見つけてしまった のです 実にうまい隠れ場所があったもの だ この家を建てた外人がこんな風 変りな穴蔵なんかこしらえておく ものだから今度のような犯罪も 起こることになったのです これがなければいくら賢い犯人 でもああまで出没自在に振舞う ことはできませんからね そうでしたか いつもながら君の手腕には敬服 です 北森氏はホッとしたように私立 探偵をほめたが何かまだ腑に落ち ぬ点があるらしく 君は今ここのうちのものに見られた くないと言いましたね すると犯人の同類が邸内にいる とでもいうのですか と訊ねる そうです 同類がいるかどうかはわかりません がなにしろ犯人自身がこのうちの ものですからね じゃあやっぱりあの綾子という 娘が いやその事はあとでゆっくりお 話ししましょう 今はそれよりももっと急を要すること があるのです エッ急を要するとは
ちょっとその懐中電燈をお貸し ください 明智は三島刑事のさし出す電燈 を受け取るとそれを振り照らし ながら穴蔵の奥へ進んで行った ごらんなさいあれを 懐中電燈の光がコンクリートの壁 を照らしていた そこに十字架上のキリストのように 磔刑になっている人の姿があった シャツ一枚のはだかにむかれて 大の字にひらいた両の手首と足首 を石壁にとりつけた太い鎖に縛 られてグッタリと頭を垂れている 人の姿があった 明智はそこへ駈けよって電燈の光 で調べていたが 大丈夫まだ死んではいません と安堵の声を漏らした いったいそれは誰です ごらんなさい この家の主人です 下からの光でうなだれた顔を見る と意外にもそれは伊志田鉄造氏 であった 苦痛の余りほとんど失神状態と なっていたが人々の声とまぶしい 光に眼を見ひらいてなぜか烈しい 恐怖の表情を示した 口には猿ぐつわをはめられていて 物をいうこともできないのだ 伊志田氏の磔刑になっていたのは 足先が地上から三尺も離れている ほど高い場所なので何か台がなければ 助けおろすこともできなかった が幸いすぐそばにキャタツがほう り出してあるのを見つけたので 三人はそれを立てていろいろ骨 を折って伊志田氏を地上におろし 猿ぐつわもはずしてやった 伊志田氏は明智に助けられたことは 充分意識している様子であった が立っている気力もなくグッタ リと地上に倒れて何かわけのわからない ことをつぶやきながら力ない手 でしきりと穴蔵の一方を指さす のであった 明智は伊志田氏が何か言おうとして いるのかを確かめるためにその 指先の示す方角へ懐中電燈を振り 照らした おやっあすこにもなんだか人がい るんじゃありませんか 北森氏が目早くそれを見つけて あっけにとられたように叫んだ
伊志田氏の縛られていた反対がわ の壁にもう一人の人物が磔刑に されている姿が電燈の丸い光の中に もうろうと浮き上がっていた 狂人の幻想 そこに磔刑になっていたのは男 ではなくて洋装をした若い女であった 猿ぐつわをはめられ両手両足を 鉄の鎖で縛られ乱髪の頭を垂れて 死人のようにグッタリとなって いた 人々はアッと声を立ててその女の 前に駈け寄り電燈の光を顔に当て た やっぱりそうだ これは綾子さんだ 綾子さんは最初からここに監禁 されていたんだ 明智は当たり前のことのように つぶやいたが北森氏と三島刑事 は驚きを隠すことができなかった 殊に三島刑事は逃亡した綾子の 跡を追ってあの品川駅前の旅人 宿に踏み込んだ当人なのだから そのまま行方不明になったと信 じきっていた綾子が伊志田邸の穴 蔵の中に磔刑になっていような どとは思いもよらぬことであった 綾子は犯人ではなかったのだ 犯人どころか被害者の一人であった のだ 人々は今の今までこの綾子こそ 伊志田家殺人事件の真犯人に違い ないと思い込んでいた あらゆる事情が彼女を指さしていた ばかりか彼女が家出をしていかに も犯罪者らしい方法で行方をくら ましてしまったことがその有罪 を確証しているかのように見え た ところが家出をしたとばかり思い 込んでいた綾子がここに監禁され 奇怪な磔刑に処せられていたの である 人々はまた大急ぎで綾子を磔刑 から助けおろさねばならなかった 彼女は父の伊志田氏より一そう 憔悴していた もし彼女が家出をしたと信じられている 日からここに監禁されていたと すれば一週間の日数がたっている のだからこの疲労はもっともの 事であった いろいろ訊ねたいのだけれどとても 答える力はないので何よりも先
ず二人を介抱しなければならなかった 三島刑事が北森課長の旨を受け て二人をそとへ運び出す手伝い を呼ぶために急いで地下道を引 っ返して行った それにしても犯人はこんなまね をして一体どうするつもりだった のかな 餓え死にするのを待つというのは 少し気の永い話だが 北森氏はなんとなく腑に落ちぬ 様子でつぶやいた いや犯人は餓え死によりももっと 恐ろしいことを考えていたのです ごらんなさいこれです 明智は穴蔵の隅へ歩いて行って 壁の隅を照らしてみせた そこには直径一寸以上もある瓦斯 管のような太い鉛の管が穴蔵の 天井を伝って床の近くまで鼠色の 蛇のように這い降りていた おやっ鉛管ですね それじゃそこから瓦斯を送るつもり だったのだね 北森氏がいよいよ驚きを深くして 叫んだ いや瓦斯よりももっと恐ろしい ものです えっ瓦斯よりも恐ろしい 僕は負傷する前にこの穴蔵を発見 してよく調べておいたのですが この鉛管はその時からここに取り つけてあったのです 昔からこんなものがあったわけ ではありません 犯人がわざわざとりつけたのです ごらんなさい この鉛管はまだ新しくピカピカ 光っています 僕も最初は殺人の瓦斯を送る仕掛け ではないかと疑いましたが調べ てみるとこの鉛管の向こうの端 は瓦斯管につながっているので はなくてこの家の庭にある撤水 車の水道管につながっていること がわかりました その水道管は真夏のほかは使用しない もので雑草に蔽われてちょっと 誰も気のつかないような場所にある のです フーンすると水責めにしようと 考えたのですか そうです 瓦斯よりも一そう残酷な方法です
この穴蔵に流れこむ水が一寸ずつ 一寸ずつ水面を高くしてくるの です 足から腰腹から胸へと徐々に水 が増して刻々に死期の近づくの を眼の前に眺めながらどうする こともできないのです 何が恐ろしいといって刻一刻時計 のように正確にまったく逃がれる すべのない死が近づいてくるの をじっと見ていなければならない ほど恐ろしいことがこの世にある でしょうか 犯人はこの二人にその恐怖を味 わわせようとしたのです いやそればかりではありません 犯人はもっと恐ろしいことを考えて いたのです 北森さんあなたはそれに気がつき ましたか 綾子さんの縛られていた位置は 床に足が着くほど低いのに比べ て伊志田さんの縛られていたのは それより二尺も高い位置です これは偶然でしょうか もし偶然でなければ何を意味する のでしょう 僕はたった今そこへ気がついて 犯人の着想の恐ろしさにゾーッと したのですよ 捜査課長は明智の言葉の意味を 悟りかねていぶかしげに相手の 顔を見つめた 明智は無残な推理をつづける これはつまり二人の被害者の絶命 する時間を同時でなくするために 違いないのです 伊志田さんの方が水面が二尺高 まるあいだだけあとで絶命する ように高い場所に縛りつけておい たのです フーンそうか 恐ろしいことを考えついたもの ですね つまり娘の苦しむ有様を父親に 見せつけようというわけですね 北森氏はやっとそこへ気づいて 深い溜め息をもらした そうです 父親は可愛い娘がもだえ苦しん でまったく息が絶えてしまうまで じっと見ていなければならない のです そしてその生々しい印象を刻み つけられたまま自分もやがて同じ
苦悶をくりかえして絶命しなければ ならないのです 狂人の幻想です 真の悪魔でなくては考え出せない 陰謀です これまでの殺人事件はすべてこの 最後の段階に達する予備行為に すぎなかったのです 一人一人家族をなきものにして 苦痛の限りを味わわせた上最後 にはもっとも愛する娘の惨死を 眺めその上自分も同じ死に方を しなければならないということ を水面が二尺高まるあいだ繰り返し 繰り返し考えさせようというの です なんという執念でしょう これがまともな人間の知恵で考え 出せることでしょうか ではあなたはこの犯罪の動機は 復讐だというのですか そうです そのことはあとでゆっくりお話し します何もかも しかし今は先ずこの二人をそと に運び出さなければなりません やがて三島刑事を先頭に三人の 刑事が穴蔵にはいってきた そして北森課長と明智の指図にした がって伊志田と綾子さんを地底 から運び出し階下の来客用の寝室 にベッドを二つ並べて一と先ず そこへ休ませ飲み物を与えて介 抱をしたのであるが明智はその さ中に何を思ったのかあわただ しく伊志田氏の老母の部屋をおと ずれていた ドアをひらくと襖の向こうの日本 間から陰気な読経の声が聞こえて 来た この数日来老人は仏壇の前に坐 りつづけて狂気のように念仏を 唱えているのだ 明智は控えの間を通り抜けて襖 のそとに立ちしばらく様子を窺 っていたがやがてソッと襖をひらいて 部屋の中を覗きこんだ そこには立派な金ピカの仏壇が 安置されあけ放った扉の前には 妙な形のロウソク立てになん十 本という小ロウソクがチロチロ と赤い焔をゆるがしていた 老人は祈祷者かなんぞのような 白衣を着て仏壇に向かって端坐
し数珠をつまぐりながら歯のない 口を無意味に動かして襖のひら いたのも知らぬげに一心不乱に 経文を読誦していた なでつけにした銀髪が長く手入れ もしないのかモジャモジャと乱 れて青ざめた皺くちゃの顔の中に 目がねの中の落ちくぼんだ両眼 だけが異様にするどく気違いめ いた光を放っていた この八十歳にも近い老人は何を かくまで熱心に祈っているので あろう うちつづく不幸に心も乱れてせ めては残る家族の無事を念じて このように一心不乱になっている のであろうがこの部屋の異様に 陰気な気違いめいた雰囲気はとも すればその逆に何かしら無気味 な呪いとでもいうようなものを 連想せしめた 明智はその様子を細目にひらいた 襖の隙からソッと覗いていたが 老人がさいぜんからの騒ぎに少し も気づいていないらしいことを 確かめると別に言葉をかけるでも なくそのまま又音のせぬように 襖を閉めて廊下に出た そして廊下の向こうを通りかかった 書生を手招きしその耳に妙なことを ささやいたのである 君このドアの前でねご老人の見張り をしていてくれたまえ 少しのあいだ地下室の出来事を ご老人に知らせたくないのだ もし部屋を出られるようなことが あったらあとをつけてあちらの 僕たちのいる部屋へこられない ように計らってくれたまえ そしてもし何か変ったことがあったら すぐ僕に知らせるんだ わかったかね 書生が頷くのを見て明智はそこ を立ち去ったが次には廊下の別の 端にある一郎青年の寝室に急いで ソッとドアをひらき部屋の中を 覗きこんだ 見ると一郎はベッドの上に軽い 鼾を立てて熟睡していた 永い時間古井戸の底に水びたし になっていた疲労のためとはいえ 昼日中この熟睡はなんとなくただ ごとでないように思われたが明智 は別に怪しむ様子もなく彼が何も 知らないで眠っているのを確か
めるとそのままドアを閉めて伊 志田氏と綾子さんの運ばれた部屋 へ引き返した 誰が犯人か 一室にベッドを並べて横たわって いた伊志田氏と綾子さんはそれから 一時間ほどのちにはいくらか元気 を取り戻して少しずつ人々の問 いに答えられるようになっていた 北森課長と明智とは二人の枕元 に腰かけてからだにさわらぬ程度 に要点だけを質問して行った その結果判明したところによる と先ず綾子さんの方はあの怪青年 荒川正太郎変死事件のあった日 すなわち綾子さんが家出をした と信じられている日以来例の覆面 の怪物のためにあの地下室に押し こめられきのうまではただ手足 を縛られ猿ぐつわをはめられて 逃亡の自由を奪われていたばかり であったがゆうべ伊志田氏が同じ 穴蔵へ連れ込まれると同時にあの 恐ろしい磔刑の姿で壁に縛りつけ られたというのである 一週間の監禁中ゆうべまでは一日 二度ぐらいずつ覆面の怪物自身 でパンと飲み物を運んでくれその 都度猿ぐつわをはずして手の縄 をといてくれたので飢渇に耐えぬ というほどではなかった それよりも一体この先どんな恐ろしい 目に遭わされるのかと思うと食事 どころではなくまったく生きた 空はなかったという 父の伊志田氏の方はゆうべまった く知らぬまに地下室へつれこまれ ふと気がつくといつの間にか磔 刑の形で壁に縛られていた おそらく犯人が何かの飲み物の中に 麻酔薬を混ぜておいたものであ ろう そしてその昏睡中の伊志田氏を 地下室に担ぎ込み目醒めぬあいだ に壁に縛りつけてしまったもの に違いない 彼は仕合わせにもまだ水責めの陰謀 には気づいていなかったのでそれ ほどの恐怖は感じなかったがしかし 眼の前に娘の綾子が同じように 縛られているのを見ながら助けて やることも声をかけることさえ できない苦しさを目醒めてから 今まで七八時間も味わわされた のであった
一郎はどうしているのでしょう あれもどうかされたのじゃありません か なぜここへきてくれないのでしょう 伊志田氏は一と通り問答がすん だあとでキョロキョロとあたり を見まわしながら気遣わしげに 訊ねた いや一郎君には別状ありません 御安心ください ちょっと僕が行って呼んできましょう 明智はなにげなく答えて立ち上る とそのまま部屋を出て一郎の寝室 へ急いだ 一郎の部屋の前には三島刑事が 腕組みをして立っていたが明智 を見ると腑に落ちぬ様子で声を かけた まだ寝つづけているんですよ どうしたんでしょう いくら疲れているといっても少し 変じゃありませんか いや心配したことはないでしょう 僕が起こしてやりますよ 明智は気軽に言って部屋にはいり ベッドに近づくといきなり一郎 を揺り起こした 一郎君起きたまえ 僕だよ 僕だよ 幾度も同じことを繰り返している うちに一郎はやっと眼を醒まして ボンヤリした顔でキョロキョロ とあたりを見まわしていたが明智 の顔を意識するとびっくりした ようにベッドの上に起きなおった おやっ明智先生じゃありません か いついらっしたのです 僕すっかり寝すごしちゃって失礼 しました きょうは幾日なんだろう 変だな 僕先生は病院にいらっしゃると ばかり思っていたのですよ 退院はあすじゃなかったのですか 一日繰り上げてけさ退院させて もらったのだよ 君のことが気になったものだから ね えっ僕のことが 君は井戸へほうりこまれていた っていうじゃないか 僕が病院に寝ているあいだにいろいろな ことが起こったね
でも怪我がなくってよかった 起きられるかい 実は君を喜ばせることがあるん だよ ええ起きられます でも僕を喜ばせることって 一郎は疲労のために青ざめた顔 に強いて微笑を浮かべながら聞き 返した お父さんがご無事だったのだよ えっ父が そればかりじゃない 綾子さんも見つかったんだ えっ姉さんも 一郎はいきなりベッドを飛び降り てドアの方へ駈け出しながら どこです どこにいるんです 早く会わせてください と狂気のように叫ぶのであった そんなにあわてることはない 二人ともあちらの部屋のベッド にいるんだよ しかし非常に疲労しているから あまり騒ぎ立ててはいけない お父さんたちの無事な姿を一と 眼見たらまたこの部屋に帰って 今後の捜査についてよく相談すること にしよう さあ僕と一緒にきたまえ 一郎は明智に助けられてよろめき ながら父と綾子の横たわっている 部屋にたどりついた 彼もまだ普通のからだではなく それだけ歩くのにもハッハッと 息を切らしていた 父と子と姉と弟とは手を取り合 わんばかりにして互いの無事を 喜び合った だが一郎はほんの二三分しかその 部屋にどどまることができなかった 伊志田氏はそれほどでもなかった が綾子が非常に疲労して神経過敏 になっているので激情的な会話 をつづけることは差し控えなければ ならなかった 明智は無理に一郎を引き離すように して再び彼の寝室へ連れ戻った それから一郎に飲み物などを与 えて激情が静まるのを待って北森 捜査課長と明智と三島刑事とが 一郎青年の部屋に落ち合いゆう べの出来事についてゆっくり互 いの意見を交換することになった
一郎はベッドに腰かけ小卓を隔 てて北森氏と明智とが椅子に着 き三島刑事は同僚と共にそのうしろ にたたずんでいた 先ず明智の口から地下室発見の 次第伊志田氏と綾子さんを助け 出した顛末をかいつまんで物語 ったが一郎青年は聞くごとに顔 色を変えて悪魔の残虐を呪った それにしてもなんという恐ろしい 犯罪事件でしょう 僕たち一家のものが最後の一人 まで害を受けていながらしかも 犯人が何者だか少しも見当がつかない なんて 彼は皮肉まじりにやり場のない 忿懣を漏らすのであった この事件には常識がないのだ 狂人の執念なんだ だから正面からぶつかったのでは とてもあいつの尻尾を掴むことは できない 狂人のくせに何から何まで考え に考え抜いて少しの手落ちもなく やっているんだからね 明智は一郎と北森氏の顔を交互 に見ながら彼の意見を述べはじめ た 例えば綾子さんを犯人に仕立て 上げたやり口一つを見てもあい つの気違いじみた頭の働き方が よくわかるのですよ 心理的にまったく不可能なことを どうしてもそうと信じないではい られぬように種々さまざまの証拠 を作り上げて行くんですからね 常識はずれの悪魔の知恵とでも いうのでしょうね 警察はもちろん弟の一郎君まで が綾子さんを犯人だと思っていた 血を分けた姉弟にそういう考え を持たせるというのはよくよく のことですよ のっぴきならぬ証拠が揃いすぎる ほど揃っていたのです そして最後にはあの奇妙な家出 という大芝居を打ってみせたの ですからね しかし僕は最初からあの人を真犯人 とは考えなかった それは一つはあのうら若い女性 が実の弟を傷つけたり実の妹を 惨殺したりすることは非常に不 自然だという常識判断に基づく
のですがもう一つはちょっとした ごくつまらないことから犯人の トリックを見破ったのです それはねあのヘリオトロープの 匂いですよ 一郎君はよく覚えているだろう 僕が覆面の怪物を物置き部屋に 追いつめてピストルで撃たれた 時非常に強いヘリオトロープの 匂いがしたということを その匂いが強すぎたんだよ 綾子さんが日頃ヘリオトロープ を使っていることは誰でも知っている のだから大切な犯行の際にその 特徴のある香水をあんなに強く 匂わせているというのは犯人の 心理に反するじゃないか 不思議なことに最初君が傷つけ られた時カーテンの蔭に隠れて いた曲者をおっかけた折には少し もヘリオトロープの匂いなんかし なかったのだ その時には犯人が匂いのことまで まだ気をくばっていなかったの だよ そしてあとになって僕が綾子さんが ヘリオトロープを使っていることを 知るようになってからさっそく あの匂いを利用して誤った判断 におとしいれることを考えついた のだ だが明智君綾子さんが塔の三階 で怪しげな信号をしていたことは 間違いないのでしょう 君の眼でその姿を見たのでしょう 北森氏が急所を突くような言葉 をはさんだ そうです あれは確かに綾子さんでした はっきり顔を見たのです そしてその時はじめてあの人が ヘリオトロープを使っていることを 気づいたのですよ あれは綾子さんに違いなかった のです 犯人はあの綾子さんの不思議な 行為を知って巧みにそれを手品 の種に利用したのですよ 僕もこの眼で見たのだからはじめの あいだは綾子さんを疑わないわけ にはいかなかった しかし僕が病院にいるあいだに 突発したあの荒川という青年の変 死事件のお蔭で僕は一つのまった く別な想像を組み立てることが
できたのです 伊志田さんにしろ一郎君にしろ どうしてそこへ気がつかなかった かと不思議に思うほどですよ 至極簡単な事柄です 恋愛なのです 綾子さんはあの職工の息子と秘 かに恋におちいっていたのではない かと気づいたのです そこで僕は病院のベッドから指 図をして懇意な青年を死んだ荒川 の友だちらしく装わせついこの 裏の荒川の家を訪問させたのですよ そして母親をうまくくどき落と して荒川の大切にしていた日記帳 を手に入れたのです その日記帳には綾子さんとのひそ かな恋愛の顛末が細々としたため てありました なぜ母親がその日記の記事に気 づかなかったかといいますとね それは全文ローマ字で書いてあった からですよ 塔の三階から荒川の家の窓が見える のです 綾子さんは恋人と信号をかわしていた にすぎないのです 荒川の方でもやはり懐中電燈で それに答えていました ただ恋の言葉を送り合う場合も あったでしょう 又信号によって荒川を邸内に呼び寄せ る場合もあったでしょう 荒川が変死をとげたのはその後 の方の場合だったのです 綾子さんがなぜそんな不自由な まねをしていたか それは相手がわるかったのです 相手が職工の息子でしかも文学 青年というのでは頑固な伊志田 さんが許すはずはありません 二人は最初から親の許しを受ける ことは諦めていたのです それに綾子さんにしては物語にある ような古塔の上から胸おどらせ ながら秘密の通信を取りかわす という冒険的な恋愛に人知れぬ 喜びを味わっていたことでしょう ですから荒川青年を撃ったのは むろん綾子さんではありません あの夜小林が見たという塔の窓の 白い人影も綾子さんではなくて 犯人がそういう服装をして待ち 構えていたのでしょう
荒川を信号でそこへ呼び寄せたの もおそらく真犯人の仕業ですよ 犯人は一応綾子さんに嫌疑をかける ことに成功したもののいつ綾子 さんがほんとのことをしゃべらない とも限らぬ 殺人犯人と疑われるよりはいくら 恥かしくても恋愛を打ちあける 方がましですからね 犯人はそれを恐れたのです そこで綾子さんを家出させ行方不明 にしてしまうことを考えついた しかし綾子さんを隠してしまっても 相手の荒川が生きていてはあの 青年の口から秘密がばれないとも 限らないので先ず荒川をおびき 寄せて殺害した上綾子さんを地下室 へ監禁しておいて綾子さんの替 玉を作り変装用の古着を買わせ たり品川駅前の安宿に泊まらせ たりいろいろな証拠を残して品川 駅前から汽車に乗って遠くへ逃亡 したように見せかけたのです 一方庭に残された荒川の死体は この事件の怪奇性を一そう深める 役にも立ったわけです まったく見知らぬ男が夜のあいだ に死体になって邸内に倒れている なんて実に申し分のない煽情的な 光景ですからね 明智はそこでちょっと言葉を切る と北森氏は感に堪えたように口 をはさんだ なるほどそうだったのか そう聞いてみればよく筋道が立 っていますね 恋愛問題とは誰も気がつかなかった われわれは怪談ばかりに気をとら れて色っぽい方のことはすっかり 忘れていたのですね しかもその発見の手掛りがたった一 冊のローマ字の日記帳だったとは 面白い あなたそれをお持ちですか あとでゆっくり拝見したいもの ですね 北森氏は思わず笑い声を立てた がすぐ思いなおしたようにまじめ な顔になってもっとも重要な点 に触れて行った それで綾子さんが犯人でないことは よくわかったのですがすると真犯人 はいったい何者でしょう 僕はなんだかいよいよ迷路の中に 追い込まれたような気がするんだ
が明智君君はこの点についても 何かわれわれの知らない材料を 握っているんじゃありませんか すると明智小五郎はモジャモジャ の頭の毛を指でかきまわしながら ニッコリ笑って答えた お察しの通りです 僕は実に非常な材料を握っている のです 病院のベッドの中でそれを手に 入れたのです えっベッドの中 北森氏も一郎青年もびっくりした ように明智の顔を見つめた ええベッドの中でそれを手に入れる 手段を思いついたのです そしてある腹心のものを使って うまくその貴重な材料を掴むことが できました 犯人が僕を撃って重傷を負わせ たのは一時僕をこのうちから遠 ざけるためでした そして僕のいないあいだに彼の 計画を完了するためでした ところがそれがかえって僕には 仕合わせだったのです 病院で静かに寝ていたからこそ その貴重な資料に気がついたの ですからね もし僕が無事でこのうちに見張り をつづけていたら或いは伊志田 さんや綾子さんが穴蔵の中へ監禁 されるようなことはなくてすん だかもしれませんがその代りに あの重大な資料は手に入れることが できなかったでしょう そして真犯人は永久に発見し得 なかったかもしれません その資料というのはそれほど決定 的な証拠物件なのです するとつまり君は真犯人はもう 発見したと言われるのですか 北森氏が聞き捨てにならぬという 面持ちで詰めよった そうです 僕は真犯人をつきとめたのです 明智はきっぱり言い切った もしそれがほんとうとすればわれわれ はこんな雑談に時をついやしている 場合ではないじゃありませんか 君はその犯人の居所を知っている のですか むろん知っています そして犯人はもう逃亡できない ような手配がしてあるのです
少しもご心配には及びません 北森捜査課長は真向から一本打ち 込まれたような気がして思わず 顔を赤らめた ではすぐ部下をやって逮捕しましょう さあ案内してください 犯人は一体どこに潜伏している のです そしてそいつは何者です やっきとなる北森氏を制して明智 は静かに答えた どこへも行く必要はありません その犯人はこの家の中にいるの です 暗黒星 えっ犯人がここにいるそれに君は どうしてそんなに落ちついている のです 一体そいつは何者です 北森捜査課長はもどかしげに明智 の顔を見つめた しばらくお待ちください その犯人を指摘する前に少し説明 しなければならない点があるの です 今すぐ犯人の名を言っても皆さん はおそらく信じられないだろう と思うからです 名探偵は例の落ちつき払った調子 で語りはじめた 犯人が伊志田一家の全滅を企て ていたことはこれまでの事件の 経過によって明らかです しかしよく考えてみると犯人はまだ その計画の半分もなしとげていない ご主人の伊志田氏と綾子さんとは 今一歩という危うい場合を救い 出すことができたのですし一郎 君は度々危害を加えられたけれど 幸いにその都度命拾いをしている ですから犯人が完全にその目的 を果たしたのは夫人の君代さんと 小さい鞠子さんとただ二人であった ということになります しかし二人にもせよ犠牲者を出した ことは最初からこの事件に関係 している僕としては実に申しわ けないことでこの点は依頼者の 一郎君にも深くお詫びしなければ なりません 君代さんの場合はまったく僕の 手落ちといってもいい 僕がここに泊まり込んでいてあんな ことが起こったのですからね
その時僕自身も犯人のピストル によって重傷を負ったというくらい では申しわけにならないことは よく知っています また鞠子さんの場合もたとえ僕の 入院中の出来事であったとはいえ 適当な手配をしておけば未然に 防ぎ得たかもしれないのです これについても僕は充分責任を 感じています そういう手落ちがあったのです から僕としてはその申しわけのため にも是が非でも犯人を捕えなければ ならない そうして二人の犠牲者の霊にお詫び をしなければならないと病院に いてもただそればかりを考えて いた そしてとうとうこの地獄の謎を 解く鍵を発見したのです 聞き手はこの長い前置きをもど かしく思った 犯人は誰か 今どこにいるのか それを早く聞きたいと思った だが明智は犯人はもう監視を受け ているという安心のためかそれ とも何かほかに事情があったのか 結論はあと廻しにして先ず彼の 推理の経過を語るのであった 今度の事件をよく考えてみると 同じ伊志田家の家族中でも犯人の 襲撃のしかたがまちまちであった ことに気づきます もっとも際立っているのは一郎 君のお祖母さんだ あの方はまったく一度も害をこう むっていない 非常なお年よりだから犯人が問題 にしなかったのかもしれないが まるであの方だけ家族の一員でない かのような取扱いを受けている 一方これとは逆にもっともしばし ば犯人に狙われたのは一郎君君 だ まっ先に短刀で刺されたのも君 だしその後も麻酔剤を嗅がされて 一と晩じゅう物置き部屋にころ がっていたりそうかと思うとゆう べは古井戸の底に投げ込まれて いた そのほか君の写真の眼から血が 流れたり犯人から電話がかかって きたり犯人はいつも君をもっと も憎んでいるように見えた
綾子さんは恐ろしい嫌疑をかけ られこの事件では重要な役目を 勤めているのだけれどほんとう に殺人鬼に襲われたのは今度が はじめてなんだからね だが君は幸運にも死をまぬがれる ことができた いや君は幸運だったというよりも 犯人の方が不手際だった 例えば君に麻酔薬を嗅がせて一晩 空き部屋へほうり込んでおくという ようなやり方は僕にはまったく 理解できないことだ そのひまに君の命を奪おうと思 えばいつだって目的をとげることが できたはずだからね 犯人は君をおもちゃにしていた のだろうか 一と思いに殺すのはもったいない ので何度でもひどい目にあわせ てやれというつもりだったのだろう か 明智はそこで口を切ってじっと 一郎青年の顔を見つめた 一郎は無表情な顔で別に言葉を はさもうとはしなかった 探偵という仕事はどんなに不可能 に見えることでも一応疑ってみな ければならない 僕はこの犯人の変なやり口に興味 を感じた それを底まで研究してみようと思 った 僕はかつてアメリカのある非常 に聡明な殺人犯人の話を読んだ ことがある その犯人は嫌疑をまぬがれるために 自分自身をピストルで撃って重 傷を負ったのだ そしてある名探偵にみずから進ん で事件の捜査を依頼した つまり彼は逆手を打ったのだ 危険のまっ唯中に身をさらすことが かえって安全だという論理を知って いたのだ そして名探偵に対して知恵くらべ を挑んだのだ ある種の性格にとってこういう 知識的なスリルは何にもまして 魅力があるものだからね でそのアメリカの犯罪事件では さすがの名探偵も永いあいだ犯 人の捨て身の戦法に欺かれていた のだがしかし結局勝負はついた
犯罪者が法律に勝つなんてことは あり得ないのだ その探偵は幾人かの生命を犠牲 にしたが最後には真犯人を捕えた のだよ ちょっと待ってください それはどういう意味なのですか その聡明な犯人というのは外形 上今度の僕の立場となんだか似ている ようですが 先生に最初事件をお願いしたの も僕なんだし 一郎青年はびっくりしたような 顔をして探偵を見つめた 外形ばかりじゃない 実質的にも似ているんだよ えっそれじゃ ハハハハハ何をおっしゃるのです こんな際につまらない冗談はよ してください 一郎はとうとう腹を立てたらしく 烈しい口調で言った だが明智は別に失言を取消すでも なくまた妙な譬え話をはじめた どこかの天文学者が暗黒星という 天体を想像したことがある 星というものは必ず自分で発光 するか他の天体の光を反射する かして明かるく光っているもの だが暗黒星というのはまったく 光のない星なんだ 宇宙にはそういう眼に見えない 小さな星があってそれが或る場合 に地球に接近してくるというのだ 接近するばかりじゃない非常に 小さい星なので地球の引力に負け て衝突することもあり得るという のだ これは怖い話だ すぐそばまで近づいていてもまった く眼に見えない星夜空を見ていて そういう星を考えるとゾーッと することがある 小さいと言ってもやはり独立の星 なんだから地球に接近すれば空 全体を蔽ってしまうほどの体積 を持っているに違いない 僕は今度の事件を考えていてふと その暗黒星の話を思い出した 今度の犯人はつい眼の前にいる ようで正体が掴めない まったく光を持たない星いわば 邪悪の星だね だから僕は心のうちでこの事件 の犯人を暗黒星と名づけていた
のだよ でその暗黒星は何者だとおっしゃ るのですか 明智のもどかしい話し方を我慢 ができないというように一郎青年 がどなった 美しい顔が腹立たしそうにパッと 赤らんでいた 君が考えている通りさ えっ僕が考えている ウン君が一ばんよく知っている と思うんだ 君自身のことだからね えっそれじゃ やっぱり先生は僕が犯人だと 何か異議があるのかい 明智は少しも声の調子を変えない で言った 論争 ハハハハハ何をおっしゃるのです もしそれが冗談でないとしたら 先生はきょうはどうかなすっている のですよ まだからだのぐあいがよくない のじゃありませんか そんなつまらない邪推なんか弁 解するのもばかばかしいくらい です 僕が真実の父や姉を殺そうとした とおっしゃるのですか 真実の妹を殺したとおっしゃる のですか 母はほんとうの母じゃありません でしたがあのやさしいお母さん になんの恨みがありましょう 僕は気ちがいでもない限りそんな 無意味な殺人罪など犯す道理がない じゃありませんか それとも先生は僕を殺人狂だと でもおっしゃるのですか またたとえ僕に殺人の動機があった としてもです 現実の反証がいくらだってあります 先生はもうお忘れになったのですか 最初僕がやられた時先生は電話 であいつと僕との格闘の音をお 聞きになったじゃありませんか そして駈けつけてくだすって僕を 介抱していてくださる時に犯人は カーテンのうしろに隠れていて 先生の眼の前を逃げ出して行った じゃありませんか あの時僕と真犯人とは同時に先生 の前にいたのです
僕が犯人だとすれば分身の魔法 でも使わない限りそういうことは 起こり得ないじゃありませんか 犯人が庭の塀の上を歩いた時だって そうです 僕は皆と一緒に鞠子の部屋の窓 からそれを見ていたのです そのことは書生にお聞きくだされ ばはっきりわかるはずです 一郎は明智の疑いを一挙に粉砕 してみせた 彼の論拠はことごとく動かすこと のできないものばかりのように 見えた 電話の声なんか少しお芝居気があれば どんなまねだってできる それは問題ではないが君のいう ように君と犯人とが同時に人の 前に現われたことが幾度かある この見事なトリックが最初のあいだ 僕をだましていたのだ 君は実に用意周到だったね みずから傷ついてみせみずから 井戸の底に落ちこんでみせその 上君自身が僕に犯人捜査を依頼 するというトリックだけではまだ 危ないと思ったのだ そこで君は君と一緒にあの覆面 の怪物を現わしてみせたのだ むろんあれは君の替玉だった 実際の犯行の場合には君があの 覆面をつけインバネスを着たの だが犯人はこの通りほかにいる という証拠を作るために二度ばかり 替玉を使った 覆面と外套で顔もからだも隠している のだからこの替玉は少しの疑いも 受けることはなかった ハハハハハ替玉ですってうまい 考えですね 僕は一体どこからそんな替玉を 雇ってくることができたのです 先生があくまでそれを主張される のでしたら一つその替玉に使われた 男をここへ連れてきて見せていただき たいものですね 一郎青年は少しもひるまず抗弁 した 残念ながらその男を連れてくる ことはできない なぜといってその替玉の人物も 君が殺してしまったからだ 実に君の注意は隅から隅まで行き 届いていた
替玉に使われた男というのは綾子 さんの恋人の荒川庄太郎なのだ 君は荒川と綾子さんの秘密を知って これを二重に利用しようと計画 した 一方では綾子さんの恋愛のための 異様な挙動を綾子さんが犯人であるために そういうそぶりをするのだと人々 に思い込ませ一方では荒川を脅迫 して君の替玉を勤めさせた 荒川は殺人事件のことは知って いたに違いない しかしまさか君が犯人だとは気 づかなかった 気の毒な被害者だと信じていた だから君が二人の関係をお父さん に告げるといって脅迫すればただ 恋人綾子さんにことなかれと願う 心から前後の考えもなく妙な役 目を引き受けたに違いない むしろ犯人の替玉だなどとは少し も知らなかったのだ これは僕の想像ではない 例のローマ字の日記帳が教えてくれた のだ ほんの一行か二行の簡単な記事 から僕は一切の事情を悟ったのだ あれほど用意周到の君が荒川青年 の秘密の日記帳に気がつかない なんて千慮の一失というべきだね そして君はその荒川をなんの躊躇 もなく撃ち殺してしまった あの時小林君が見た塔の窓の白い 姿はむろん君だった 君が綾子さんに変装していたのだ なぜ荒川を殺さねばならなかった のか ここにも二重の意味があった 一つは綾子さんの塔の上からの 信号をいつまでも犯罪の合図であった と見せかけておく必要からだ 信号の真の意味が荒川の口から 漏れてはすべての計画がだめになってしまう のだからね もう一つはいうまでもなく君の 替玉に使ったことを口外させない ためだ そして君は綾子さんが殺害した かの如く装い綾子さんを秘密の 地下室へ監禁しておいて君自身 姉さんに化けて家出をしてみせ たのだ 君はからだも華奢だし女のように 美しい顔をしている
カツラをかぶって女装をすれば 夜の人眼を欺くぐらいさしてむずかしい ことではない 君はその女装でなるべく人の注意 を惹くようにして品川駅前の旅館 に泊まりそのまま裏口から逃げ 出して大急ぎでここへ帰ってきた そしてあの物置き部屋にはいって 誰かが見つけてくれるまで無意識 をよそおってころがっていたのだ 麻酔剤のために前後不覚に眠って いたといえば充分アリバイが成り 立つわけだからね 君はお母さんと鞠子さんの命を 奪ったばかりではない なんの恨みもない荒川を殺した この僕に重傷を負わせたのもむ ろん君だ 君は僕を殺す意志はなかった 好敵手の命を絶っては折角のスリル がなくなってしまうからね ただ重傷を負わせて数日のあいだ 僕をこの家から遠ざけさえすれば よかったのだ そのあいだに一切の計画を完了 して僕が病院を出るのを待って ざまを見ろとあざ笑うつもりだった のだ だから君は絶えず病院を訪ねて 僕の心のうちを探ろうとした いやそればかりではない 綾子さんに嫌疑をかけるための 巧みな推理を組み立てて僕に同意 させようとさえした あの綾子さんと鞠子さんの部屋 の境の壁にしかけてあったピストル 装置もむろん君の仕業だ 二人の留守の折にどちらかの部屋 へはいってあの仕掛けをするのは わけのないことだからね そして君自身仕掛けておいた装置 をさも手柄らしく発見してみせ たのだ 僕はあの時君の推理を聞いている あいだにはじめて君を疑う心が 起こった それまでは君の美貌にあざむかれて こんな若い美しい青年に人殺し ができるなどとは夢にも考えなかった のだ あの時まで僕は心から君の友だち だった しかし君のまことしやかな推理 を聞いて以来僕は君の敵になった
君を犯人と仮想してあらゆる関係 を考察した そして君こそ犯人だという結論 に達したのだ そこで僕はちょっとしたトリック を用いて君を油断させた きのう君が病院へ電話をかけて きた時僕はあす退院するといった それまではどうしても君のうち へ行くことはできないから充分 気をつけて身を守るようにとい った そういって君を油断させておいて 一日早くきょう僕はここへやってきた 君はそれをまったく予期してい なかった あすまでは大丈夫だとたかをくく っていたのだ 僕はここへ着くとすぐ書生が君の ところへ運ぶ紅茶の中へ多量の 眠り薬をまぜてしばらく君を眠 らせておいた 君が地下室の発見されたことを 気づいて逃げ出すようなことが あってはいけないからだ その時突然ドアにノックの音が して書生が名刺を持ってはいってきた ので明智は話を中絶してそれを見 なければならなかった 明智への来客らしく彼は書生に ちょっと待たせておいてくれたま え と答えて追い出すように部屋を 去らせた すると相手の言葉の途切れるの を待ち構えていた一郎がその機 をとらえて恐ろしい勢いで抗弁 をはじめた 面白いお考えです 小説としては実に面白いと思います しかし確証が一つもないじゃありません か ローマ字の日記帳とやらをのぞ いてはことごとくあなたの空想 にすぎないじゃありませんか またその日記帳にしてもそれを 書いた男は文学青年なのですから ね 文学青年の頭には現実と空想の けじめがないのです そこに何が書いてあったにして もそんなものは取るに足らぬ幻想 です なんの確実性もないのです
それにあなたは先ほど僕の言った もう一つの重大な点にまだ少し も触れないじゃありませんか それは動機です 狂人でもない僕がなぜ真実の父 や姉を殺そうとし真実の妹を殺害 しなければならなかったかという その理由です 動機がまったく不可能とすれば そのほかの点がいかにまことし やかに説明されてもそんなものは 一顧の価値もありません 僕には殺人の動機がまったく欠け ているのです 絶対に不可能なのです それが君の最後の城郭だね そういう言い抜けの道があれば こそ君はさっきから少しも不安 を感じなかったのだ お父さんや綾子さんが救い出された のを見ても平然としてこの捜査 会議の席に列することができたの だ しかし一郎君僕が動機を確かめない でこんなことを言い出すと思う かね 僕はそれほどぼんくらではない つもりだ ではこの僕があの可愛い血を分け た妹を殺したとおっしゃるのですか ところが君は鞠子さんの兄ではない のだ 伊志田さんの子でもなければ綾子 さんの弟でもないのだ 明智は実に驚くべき言葉をズバリ と言ってのけた 執念の子 えっなんですってあなたはいったい 正気でそんなことをおっしゃる のですか 僕が伊志田の子でないなんてもし そうだとすれば父がそれを知っている はずです 姉がそれを知っているはずです あなたは父や姉にそれを確かめて ごらんになったのですか 一郎は憤怒に青ざめて声を震わせて 叫んだ いやお父さんや綾子さんはその ことを少しもご存知ないのだ えっ父が知らないんですって ハハハハハ僕が父の子でないことを 父自身が知らないのですってハハ ハハハこれはおかしい
いったいそんなことが世の中に あるもんでしょうか それではいま君に確かな証拠を見 せて上げよう 明智はツカツカと立って行って ドアをひらき廊下に居合わせた 一人の書生に別室に待たせてあった さっきの客をここへ連れてくる ようにと命じた しばらくすると書生に案内されて 三十四五歳の背広を着た会社員 風の男が彼より十歳ほど年上の 質素な身なりをした女を伴って はいってきた これは僕の手伝いをしていてくれる 越野君です こちらの婦人は今から二十年以前 区内の近藤産科病院の看護婦を 勤めていた宮本せい子さんです 明智は一同に両人を引き合わせ た 読者はかつて明智が病院のベッド の上で捜査の端緒を掴んだとい って狂喜したことを記憶される であろう その時看護婦に電話をかけさせて 病院へ呼びよせたのが今ここにいる 越野であった 僕はこの越野君に重大な資料の 収集を依頼したのですが越野君は 実に申し分なくやってくれました 越野君は先ず伊志田一郎がどこで 産れたかを調べたのですがそれは 簡単にわかりました 伊志田鉄造氏の前夫人は区内の 近藤産科病院に入院して一郎を 産んだのです いや一郎ではなくて今はどこにいる とも知れぬ夫人のほんとうの子 を産んだのです という意味はやはり同じ病院で 三日ばかり前に産れた別の赤ん坊 と伊志田夫人の赤ん坊とが秘かに 取り替えられたのです その不正の手先をはたらいたの がここにいる宮本さんでした 越野君はこの宮本さんをずいぶん 骨を折って探し出してくれたの です 僕は宮本さんに詳しく当時の様子 を聞いているのですが僕の言葉 がでたらめでないことを証する ために宮本さん自身の口から簡単に それを話してもらうことにします
宮本さんあなたは後に伊志田一郎 という名をつけられた赤ちゃん を知っているでしょうね その赤ちゃんはほんとうは誰の子 だったのですか 宮本せい子はドアの前に小腰を かがめておずおずしながら答え た わたくしほんとうに申しわけない ことをいたしました 今ではどんなにか後悔いたしております がそのころはまだはたちを越した ばかりの世間知らずでついお金 に眼がくれまして でそのあんたに頼んだ人という のは はい瀬下 瀬下良一とかいうかたでございました ちょうどそのかたの奥さんが同じ 病院でお産をなさいましてその 赤ちゃんを伊志田さんの奥さんの 赤ちゃんとこっそり取りかえて くれたらこれこれのお礼をする からとおっしゃって莫大な金を見 せられたものですからつい魔が さしまして 宮本せい子がそこまでしゃべった 時恐ろしい叫び声が部屋じゅう に響きわたった もういい わかった わかった もうたくさんだ その先は僕が言う 僕に言わしてください 僕は親の意思を半分しか果たせ なかった だがやれるだけやったのだ そして負けたのだ 一郎青年が見るも無残な形相で ベッドの前に立ちはだかっていた 僕は明智小五郎をみくびっていた 青二才のくせに天下の名探偵を 軽蔑したのが間違いだった この秘密だけは絶対に漏れるはず はないと安心しきっていた それを明智さんはすっかり調べ 上げてしまった 僕は負けたんだ もう隠しだてなんかしない 最初から命は投げ出しているんだ 完全に目的を果たさなかったのは 残念だが全力を尽して負けたん だから地獄にいる僕の父も許して くれるだろう
皆さん僕は悪魔の子なんだ 復讐の一念に凝りかたまった悪魔 の子なんだ 瀬下良一というのは僕のほんとう の父です 僕はその父の呪いの血を受けて 復讐の器械としてこの世に生れて きた人外の生きものです 父は命がけで愛していた恋人を 伊志田鉄造のために奪われた その恋人というのが僕の前の母 伊志田の先夫人です 父は恋人を奪われたばかりではない 商売敵の伊志田氏のために事業 を奪われ財産を奪われついに人の 軒下に立つ乞食にまで零落してしまった 父はその乞食姿で恨み重なる伊 志田家の門前に立たなければなら なかった かたきの憐みを乞うほかにまった く思案が尽きてしまったのです その可哀そうな父を伊志田は虫 けらのように取り扱った 父の昔の恋人の前で侮辱の限り を尽した 父は伊志田家の門前で自殺をする か復讐の鬼となるか二つに一つ を選ばなければならなかったの です そしてくやしさの歯ぎしりで口 を血だらけにしながら復讐の鬼 となることを誓ったのです ただ相手を殺すくらいではあき たりない 自分が受けた十層倍も辛い苦しい 思いをさせてやらなければ気が すまぬ そこで父は復讐の資金を得るために 或る手段を採った その金で家を持ち妻を娶った その妻となった僕の母はやはり 伊志田の悪辣な搾取に遭って家 を亡ぼした人の娘だった 父はそういう娘を探し出して娶 ったのだ そして二人の呪いを一つにして 私という執念の子を産んだのだ 父は絶えず伊志田家の動静を探 っていたから伊志田夫人が妊娠 したということもすぐにわかった ところが不思議なことにちょうど 同じ時僕の母も僕を身ごもって いた その偶然の一致が父に悪魔の計 略を授けた
伊志田夫人の入院した病院へ私の 母も入院した そして父は泥棒した金で一人の 看護婦を買収したのだ 人知れず赤ん坊のすり替えが行 なわれたのだ 僕は伊志田家で育ったが僕の父 と父が探し出してきた悪魔の申し 子のような小娘とによって絶えず 秘かに復讐の教育を受けていた 父はその小娘を手を廻して伊志田 家の女中に住み込ませた 僕とその女中とはすぐ仲よしになった そして小娘は毎日のように僕を 遊ばせにつれ出してある場所で 僕のほんとうの父に会わせていた 僕は父から僕の使命を聞かされ あらゆる悪魔の知恵を授かった そうして僕は大きくなったのだ 学校へ通うようになるとその往 き帰りには必ず或る場所で父に 会った 僕は父が気の毒だった 父のためならどんなことをしてもいい と思った その父は今から五年前になくなった が臨終の床で血を吐きながら僕の 手をくだけるほど握りしめて復讐 の誓いを立てさせた その時父の執念がそのまま僕に 乗り移ってしまったのだ 僕はそれからの五年間今度の復讐 の計画を立てるために夜の眼も 寝ないで考えた 考えに考え抜いた計画だった だが僕は自分の年齢を忘れていた いくら考え抜いても子供の知恵 は子供の知恵にすぎないことを 忘れていた 明智探偵に挑戦するなんて身のほど を知らぬ虚栄心だった そして負けたのだ 見事に負けたのだ もう逃げたって逃げおおせない ことはよく知っている 父の分と一緒にお仕置を受ける までだ そして早く地獄へ行って父の顔が 見たいばかりだ 一郎は血走った眼で狂気のように 叫びつづけたがそこで言葉が途切れ たかと思うとガバとベッドの上に 身を投げてはげしく泣き出した まるで四五歳の幼児のようにワー ワーと声を立てて止めどもなく
泣きつづけた 僕はすっかり面くらってしまった 明智さん君の明察にも驚きました がこの青年の告白には一そう面 くらいました 永い警察生活のあいだにも珍しい 例です 人間がこういう心持になるという のは僕らにはほとんど理解の及ば ないところですね 北森捜査課長はあきれ果てたという 様子で明智の顔を眺めた われわれの知っている人間とは まったく別物のようですね さっき自分でも言っていた通り この青年は執念の子に違いありません 親子二代にまたがる邪念の結晶 です さすがの明智小五郎も言うすべ を知らぬかのように憮然として 腕をこまぬくのであった
見えざる悪魔が巻き起こす血の惨劇! 死人の復讐に怯えて暮らす男の物語をBGM無しで読ませて頂きました。
おやすみや作業のお供にどうぞ……
……字幕(日本語)を付けております。必要に応じご活用ください。
◆作品:暗黒星(青空文庫)
◆概要:
大富豪伊志田家の邸宅で殺人事件が発生した。
長男の一郎は名探偵明智小五郎に調査を依頼するが、怪人は彼をあざ笑うかのように次々と奇怪な犯行を続けていく。
犯人の凶弾に倒れる明智。
怯えて暮らす伊志田家の面々。
そんな中、不審な行動を繰り返す長女の綾子に嫌疑がかかる。
謎だらけの家族とその邸宅。
明智は見えざる悪魔からの挑戦に敢然と立ち向かうことを決意した。
◆チャプター:
0:00:00 恐ろしき前兆
0:25:44 悪魔の声
0:38:39 人間コウモリ
0:49:44 写真の怪
0:59:27 妖雲
1:10:05 塔上の怪
1:23:58 美しき嫌疑者
1:36:28 名探偵の奇禍
1:49:39 空を歩く妖怪
2:03:53 壁の穴
2:24:23 名探偵の盲点
2:33:16 第三の銃声
2:43:02 謎又謎
2:52:16 麻酔薬
3:06:33 綾子の行方
3:21:36 狂気の家
3:42:52 最後の犯罪
3:58:03 闇を這うもの
4:07:40 地底の磔刑
4:17:07 狂人の幻想
4:28:46 誰が犯人か
4:48:16 暗黒星
4:57:52 論争
5:09:50 執念の子
◆著者:江戸川乱歩 1894年〈明治27年〉10月21日 – 1965年〈昭和40年〉7月28日)
日本の小説家。ペンネームは小説家のエドガー・アラン・ポーを日本語風に変えたもの。
引っ越しマニアで生涯46回も繰り返した。
早稲田大学を卒業後、多くの仕事を経て1923年(大正12年)『二銭銅貨』で作家デビューする。
1936年に発表した『怪人二十面相』がヒット、少年層向けにシリーズ化される。
晩年には私財を投じて江戸川乱歩賞を制定し、パーキンソン病を患いながらも口述筆記で活動を継続する。
1965年、70歳で死去。
◆一部現代において不適切と思われる表現がありますが、原文を尊重しそのまま読ましていただいております。
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▼【エドガー・アラン・ポー】黒猫
https://youtu.be/RnHfIf1Lh40
A mysterious reading that makes you sleepy.
Novel : The Dark Star.
Author: Rampo Edogawa (21 Oct 1894 – 28 Jul 1965)
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