【主日礼拝LIVE配信】2024年4月14日@山手町教会動画配信サービス

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【主日礼拝LIVE配信】2024年4月14日@山手町教会動画配信サービス

おはようございます。本日の主日礼拝は10:30からです。私たちとともにオンライン上で神様に礼拝をささげたい方、大歓迎です。チャンネルは礼拝開始10分前から開き、開始5分前には会堂内の音響が流れ礼拝に向け、堂内の皆様とひとつ心になって備えることができます。心から主を賛美し、ともにいけるまことの神様に礼拝をおささげしましょう。説教要旨は以下の通りです:

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2024年4月14日 主日礼拝説教要旨
説教題:『わたしたちの幸福論』
聖 書:マタイによる福音書5章1~10節

『Oggi(オッジ)』といえば90年代に創刊した女性誌だが、最近はwebサイトも充実している。その中に幸福度に関するアンケート調査(2022年9月調べ)があった。一部抜粋すると「どのようなことに幸せを感じるか」の答えのトップは男女とも「おいしいものを食べているとき」、2位は「趣味をしているとき」。また「幸せに必要なものは何か」の答えは、これも男女ともに「お金(経済的余裕)」が第一位であった。喜劇王チャップリンは「おそれを持たなければ、人生はすばらしいもの。そして人生に必要なものは勇気、想像力、そして少しのおカネだ」と言い、お金を三番目に置いたが、日本人はそれが一番目に来る。チト考えさせられた。閑話休題。今朝の箇所は山上の垂訓として有名なイエスの説教の序論部分であり、「至福の教え」としても知られる箇所である。以下三つのことを分かち合いたい。

Ⅰ.謙遜―幸せの入り口
 
 3節の「こころの貧しい人たちはさいわいである」は説明が必要である。というのも一般の日本語では「こころが貧しい」とは「度量が小さい」「しみったれている」などの非常にネガティブなイメージで用いられているのが常だからである。他方イエスが親しんだ聖書(旧約)において「こころが貧しい」とは自分の魂の破産状態を知った者が自分ではなく、神に信頼を置き、常に神を信頼し続けることを指す。この世では自分の地位や能力、あるいはもっとシンプルにカネに頼っている人が実に多いのだが、イエスは弟子たちにそういうものに目を奪われるのではなく、ひたすら神を第一優先にすること(マタイ6:33参照)を幸せだと説いたのである。その理由はじつにそのような者に神は天のみ国を給うからである。自分の力を捨て、静まって神を知り、そのみ思いに自らを投げ出していくなら、その人はこの世にありながら天のみ国の祝福を先取りするのである。

Ⅱ.神―幸せを与えるお方

 4節から9節において展開される幸せ、例えば今悲しんでいる人たちに与えられる慰め(4節)や、今神との正しい関係を求めているものに与えられる充足(6節)は「~であろう」、即ち未来形で書かれている。また原文では5節をのぞいては「受動態」が用いられている。この受身形についてある学者はこれらのこと(慰め、充足、憐みなど)を与えるのは神ご自身であると解説しているが、じつに興味深い。私たちが自分の悟りや、自分の能力、あるいは所有に望みを置くことをやめ、ひたすら神を求めていくならば、たとえ今は悲しみの涙を流していても、神が近い将来、ひいては永遠のいのちにおいて神ご自身が涙をぬぐってくださる。私たちはそれゆえにいつも主にあって「幸せ」なのである。

Ⅲ.迫害―幸せの保証

 十節の「義のために迫害されてきた人たち」の幸せは、一転「天国は彼らのものである」と三節同様、現在に置かれ、文学的には「囲い込み」を形成している。この「義のために迫害される」の「義」とは単なる倫理的、道徳的な正しさを越えたものであり、その人の人生の方向全体が神のみこころを指していることを指す。つまり神とともに生きることを第一優先した結果、この人は無理解や批判、更には悪意ある仕打ちを受けることになったと考えてよい。ではなぜイエスはそのような人に「天国は彼らのものだ」と宣言したのだろう。理由は簡単である。彼らが体験した迫害とは即ち、彼らが神に対して徹底的に従った結果起こったことであり、そうであれば「迫害を受けている」という事実こそが、彼らの信仰の品位保証になっているからである。反対にキリスト者と言いながら、カネや名誉を優先する者はその妥協的な姿勢のゆえに迫害を受けることはなくなる。だがそれは彼らの「生ぬるさ」の保証書とも言えるのだ。

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 韓国の神学校でよく歌われる賛美に「召されしこの身は」がある。〽召されしこの身は いずこも我行く 苦しみ喜び 主に従い行き だれしも止め得ず 死でさえ恐れず だれしも止め得ず 死でさえ恐れず 三番の最後は〽ほまれも名もなく 感謝し仕える ほまれも名もなく 感謝し仕える だ。時々「韓国教会は繁栄の神学に毒されている」などと言う批判者もいるが、この賛美は実に骨太、正統的かつ敬虔な信仰が息づいている。素晴らしいしかない。しかし皆さんは言ってはいけない。「そうそう、『召された』のは先生ですからねー、先生、ぜひ頑張ってください」と。信徒であれ、牧師であれ、私たちはみな等しく主に呼ばれた、主の弟子だ。聖霊によって与えられた主に対するへりくだりを保持し、今の涙をぬぐってくださる未来にある主の業に期待し、感謝と喜びに生きようじゃないか。これが私たちの幸福論である。アーメン。

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