森山加代子 – 火遊びのサンバ なかにし礼 鈴木邦彦 和ボサ

0



森山加代子 – 火遊びのサンバ なかにし礼 鈴木邦彦 和ボサ

Cool Hand Records BGM Digital Archive Project
昭和鹿鳴館 Midnight music in Showa vo.3
ボサ・フリーボサ・サンバ・ラテン・ジャズ・スキャット・ラウンジ歌謡
昭和歌謡におけるモダニズムとその考察。
http://www.coolhand-records.com/Hip-on-Showakayo-vol.3.html

森山加代子 – 火遊びのサンバ
7inch single : Denon CD-79
1970年8月1日リリース。

作詞 : なかにし礼
作曲編曲 : 鈴木邦彦
演奏 : デノン・オーケストラ

森山 加代子 (もりやま かよこ : 1940年3月23日 – 2019年3月6日)
北海道函館市出身の日本の歌手。ニックネームは「かよチャン」。
1958年夏、札幌のジャズ喫茶『ロータリー』で歌っていたところを、
マナセプロダクション社長の曲直瀬正雄にスカウトされ、同年秋に上京。
翌年には、いきなり水原弘率いる『水原弘とブルーソックス』の
専属ヴォーカル・シンガーとなり、1959年12月には「日劇ウエスタンカーニバル」
に初出場する。1960年6月、イタリアの歌手ミーナ(英語版)の「月影のナポリ」
(Tintarella di luna) の日本語カヴァーで東芝レコードからデビュー。
「月影のナポリ」はザ・ピーナッツも競作として歌っていたが、森山盤は
50万枚を売り上げ、いきなりの大ヒット。そして、当時はデビューした年に
出場するのはまず不可能と言われていたNHK紅白歌合戦にも、異例の早さで
同年の『第11回NHK紅白歌合戦』に初出場を決めた。
続く「メロンの気持」「月影のキューバ」も、競作乍ら森山盤が群を抜き、
1960年代前半に洋楽のカヴァー曲(和製ポップス)を中心としたヒット曲を連発。
さらに「じんじろげ」「パイのパイのパイ」など、コミカルなイメージを
ベースとした面白ナンセンスな歌謡曲でも数多くのヒットソングを飛ばす。
特に1961年リリースの作詞:渡舟人、作曲:中村八大による「じんじろげ」は、
その年の流行語にもなった。

作詞はその壮絶な人生を背景に業の深い詩で
昭和歌謡を代表する作詞家だった、なかにし礼。
なかにし礼 (なかにし れい) 本名:中西 禮三(なかにし れいぞう)
(1938年9月2日 – 2020年12月23日)
日本の小説家、作詞家。森田童子 (本名 中西美乃生 みのぶ)の叔父。
森田童子の父、中西正一は、なかにし礼の兄。
1938年9月2日、満洲国の牡丹江省牡丹江市(現在の中華人民共和国
黒竜江省)に生まれる。元は北海道小樽市に在住していた両親は、
渡満して酒造業で成功を収めていた。終戦後、満洲からの引き揚げでは
家族とともに何度も命の危険に遭遇、この体験は以後の活動に大きな
影響を与えた。彼の兄の中西正一は立教大から学徒出陣として
陸軍に入隊し、特別操縦見習士官として特攻隊に配属されたが終戦となった。
彼の兄の中西正一は、第二次世界大戦中に零戦のパイロットだった。
特別攻撃隊の生き残りで戦後は荒れた生活を送った。
なかにし礼は8歳の時に小樽に戻るが、兄の事業の失敗などで
小学校時代は東京と青森(青森市立古川小学校)で育ち、中学から
東京品川区大井町に落ち着く。東京都立九段高等学校卒業後、
シャンソン喫茶でアルバイトをし半年ほどアテネフランセに通う。
シャンソンの訳詩を手掛け、大学の入学資金も稼ぎ、大学在学中に
ヒットメーカーになる。一浪して1958年に立教大学文学部英文科に
入学する。中退と再入学と転科を経て、1965年に立教大学文学部
仏文科を卒業する(立教仏文の第1期生)。大学在学中、1963年に
最初の妻と結婚する。元タカラジェンヌで、シャンソン歌手の
深緑夏代に依頼されたことがきっかけで始めたシャンソンの訳詞を
手がけていた頃、妻との新婚旅行中に静岡県下田市のホテルの
バーで『太平洋ひとりぼっち』(映画1963年公開)を撮影中の
石原裕次郎と偶然出会い知遇を得る。その間、一女をもうけるも、
1966年に別居、1968年に離婚する。
石原裕次郎に「シャンソンの訳なんてやっていないで、日本語の
歌詞を書きなさいよ」と勧められ、約1に作詞作曲した作品
(後の「涙と雨にぬれて」)を自ら石原プロに持ち込んだ。
それから数ヶ月後、石原プロがプロデュースした「涙と雨にぬれて」が
ヒットする。1969年には、作品の総売上が1,000万枚を超える。
コンサートや舞台演出、映画出演、歌、作曲、翻訳、小説・随筆の
執筆や文化放送『セイ!ヤング』パーソナリティ、
NHK『N響アワー』レギュラーなども務める。

兄の中西正一は、弟のなかにし礼が多額の借金を抱えて設立した
会社をいくつも倒産させた。その頃、なかにし礼の自宅には、
中西正一の家族である、正一の妻、長女、次女中西美乃生(後の森田童子)
長男の家族が住み始めた。次女の中西美乃生は、1970年の日本の暴動時代、
17歳の時に友人が校内紛争に巻き込まれ、高校を中退した。
中西美乃生の15歳から19歳までの4年間、なかにし礼と中西正一の
家族は東京・中野のなかにし礼の自宅で同居していた。
なかにし礼は1971年に、いしだあゆみの妹の石田ゆりと再婚した。
つまり、いしだあゆみの義弟は、なかにし礼となる。
それで、1971年から1972年までの1年間、中西美乃生(森田童子)
は石田ゆりと暮らしていた。兄の中西正一のゴルフ場開発の失敗により、
なかにし礼は6億円の借金を抱え、なかにし礼の会社も倒産していった。
なかにし礼は新婚生活の邪魔だったために、これを機に兄の家族と絶縁し、
追い出した。森田童子は、なかにし礼のことが好きだったが、
なかにし礼の家での生活は彼女にとってとても大変だった。

そんな時期、なかにし礼とその兄の中西正一(森田童子の父)は、
京都から東京に来た銀座のナンバーワン若手ホステス堀川麗子
という田舎娘をスカウトした。この田舎娘は後の風吹ジュンである。
彼らは風吹ジュンのために芸能事務所「Adoプロモーション」設立し、
中西正一の友人でイラストレーターの前田亜土(本名 : 前田正春、
後の森田童子のマネージャーで夫)を社長に迎えた。
事務所に所属するタレントの風吹ジュンは給料の安さに不満を抱いていた。
なかにし礼、中西正一、前田亜土は、風吹ジュンが事務所を
移籍しようとした1974年9月12日に拉致監禁事件を起こした。
彼らはヤクザを使って風吹ジュンを監禁し、事務所の異動を断念させた。
その後の裁判で風吹ジュンの事務所への移籍は認められたが、
その際に風吹ジュンの過去の経歴詐称が明らかになり
イメージダウンとなった。
中西美乃生 (森田童子) は20歳頃から歌を歌い始め、風吹ジュン誘拐事件
の翌年の1975年に22歳でデビュー。彼女の背景には多くの問題があり、
有名な、なかにし礼との関係を隠してデビューしたかったのである。

なかにし礼は若い頃から何度も繰り返した心臓疾患や離婚に加え、
1970年代後半には、特攻隊の生き残りで戦後はニシン漁に投資して
全財産を失うなど、破滅的な人生を送った兄・正一の膨大な借金を
肩代わりして返済に苦しむ困難を抱えたこともある。
1998年にはその兄の人生を描いた小説『兄弟』で第119回直木賞候補となり、
2000年に『長崎ぶらぶら節』で第122回直木賞を受賞した。
NHK連続テレビ小説『てるてる家族』の原作となった『てるてる坊主の
照子さん』を始め『赤い月』『夜盗』『さくら伝説』『戦場のニーナ』
『世界は俺が回してる』『夜の歌』などを執筆する。
2015年6月、単行本「生きるということ」刊行。がんの再発と
向き合いながら平和の尊さについて多く触れている。
2012年のがん闘病以降、自らの戦争体験に基づき平和の尊さや
核兵器・戦争への反対を訴える著述が多く、自ら「僕たち戦争体験者は
若い世代とともに闘うための言葉を自ら探さなければいけません」
とも語っている。2020年秋に持病の心臓病が悪化し療養していたが、
同年12月23日午前4時23分に心筋梗塞のため
東京都内の病院で死去。82歳没。

作曲は奥村チヨ「恋の奴隷」、ザ・ダイナマイツ「トンネル天国」等
多数の昭和の名曲を書いた鈴木邦彦。
鈴木邦彦 (すずき くにひこ : 1938年3月1日生れ)
東京府出身の作曲家、編曲家。妻は元歌手の小野階子 (おの しなこ)。
慶應義塾中等部、慶應義塾高等学校、慶應義塾大学経済学部卒業。
学生時代は慶應義塾大学ライトミュージックソサエティに所属。
母が所有していたピアノを独学で習得し、学生時代からジャズ・ピアニスト
として活動を始め、のちに「ザ・ヒットパレード」のバックバンドにも参加。
中村八大の影響でプロの作曲・編曲家を目指す。西ドイツ・ドルトムントで
開催された1966年世界体操競技選手権に日本代表専属のピアニスト
として参加。床運動の規定曲を作曲する。
プロの作曲家としてデビューまもない1968年に『天使の誘惑』が、
第10回日本レコード大賞を受賞する。メーカーから依頼されたことにより、
ハンドベルの普及版となるミュージックベルの開発に取り組む。
1971年4月、株式会社ベルミュージック並びに日本ミュージックベル協会
を設立。株式会社エンジェルミュージック、株式会社ウエディングベル設立。

Share.
Leave A Reply