【ブッカーの正体】橋本の「即引退!スペシャル」のブッカーは外部のクリエーター!興行を盛り上げる仕掛け、話題作り、筋書き、台本作り、ストーリー創作。プロレスのアングルを描くブッカー達の正体とは?

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【ブッカーの正体】橋本の「即引退!スペシャル」のブッカーは外部のクリエーター!興行を盛り上げる仕掛け、話題作り、筋書き、台本作り、ストーリー創作。プロレスのアングルを描くブッカー達の正体とは?

橋本の即引退スペシャルはブッカーを外部 のクリエイターを起用し大 成功工業を盛り上げる仕掛け話題作り 筋書き台本作りストーリー 捜索プロレスのアングルを描くブッカー たちの正体と はこのチャンネルは毎週土曜午前10時に 公開チャンネル登録高評価よろしくお願い します スポーツの中にはそれぞれの競技統括団体 にあるランキング制度があるものがある 例えばサッカーバレーボールテニス全てを 上げることはしないが他にもランキング 制度のあるスポーツは数多い格闘技で言え ばボクシングは使用4団体がそれぞれ階級 別に順位をつけているまた大相撲の番付け もランキングとでいいだろうそしてUFC やラズシュートなどにもランキング性が 存在 するだがプロレス界にはランキング制度は ないその理由は全団体を統括する組織が ないからだとも言えるが仮に1つの団体の 中だけのことを考えたとしてもランキング 制度を取っているところは ないなぜプロレス界にランキング制度が ないのか それはプロレスが純粋に選手個人の強さ弱 さだけによって勝敗が決まる競技ではなく 観客に対していかにすごいものを見せるか それを再優先する工業だからで あるそして工業であるならばそれを成立さ せるためには一定の段取りが決まってい なければなら ない今回はプロレスにおいて観客を 引きつける工業を成立させるための段取り の1つであるアングルやブックについて 検証 する話を始める前に言葉の定義をはっきり させておきたいアングルは本来の英語の 意味では角度であるだがプロレス界の陰語 としては工業を盛り上げるために必要な 仕掛け話題作り筋書きや台本作り ストーリー捜索という意味で長年使われて き たそしてブックとそれに似た言葉である ブッカーについてはファンマスコミ あるいは団体関係者の中にさえ間違って 理解している人もいるようだブックは アングルと同じ意味である台本は本来の 英語では一般的にスクリプトやシナリオだ がブックを台本という意味で使う場合も ある だがブッカーの方は実はブックイコル アングルを作る人ではない英語のブックに は本という名詞だけでなく予約する記録 するという動詞の意味もあるダブル ブッキングという時のブックであるこれに 基づいてプロレス界におけるブッカーの 本来の意味はある団体に対して選手を手配 する人物である 例えばカールゴッチは新日本の創立機に ブッカーを務めていたこれは当時の有名 外国人選手は日本プロレスに確保されてい たので他に誰か参戦してくれる選手はい ないかとアントニオ猪木がごっちに選手の 斡旋を依頼したということである各工業の 各試合の勝敗や色々なリング内外での選手 同士の因縁をごっちが決めていたという 意味では決してないではブックイコル アングルを作る人は正確には何と呼ぶべき だろうか流血の魔術最強の演技全ての プロレスは正であるで知られるミスター 高橋はそれをマッチメーカーと呼んでいる マッチメーカーは文字通りその日の工業の 試合カードを決定する人という意味である と同時に ブックイコアングルを作る人という意味で もあると彼は 言う現在我々が目にするプロレスに関する 書籍やネットの記事においてはブッカーと いう言葉はここまでに説明した2つの意味 で使われて いるだからこの言葉を目にした時は文脈に 応じてどちらの意味なのかを判断する必要 がある だろうなおこの動画ではあえてブック イコルアングルを作る人という意味で ブッカーを使うことに するプロレス界においてはアメリカ メキシコ日本ドイツやイギリスなどの ヨーロッパどこであれブックは大昔から 存在していた例えばアントニオ猪木は自分 でブックを考えて成功したり失敗したりし ていた猪が世間を巻き込んだ有名なとして は1973年の新宿伊勢丹前襲撃事件と 1983年のIWGP決勝戦での下だし 出身慶王負けがある前車は大成功これに よって無名の外国人タイガージェットシン は猪木のライバルとして飛躍し始めた そして校舎は歴史に残る大失敗と言って いい だろうただいずれにせよこれらが起こった 70年代や80年代にはなんとなくそれ らしきことを感じている人たちはいたとし ても多くの一般のファンや視聴者がブック とかアングルといった言葉や概念を強く 意識することはなかったアングルの存在 それが明らかになったのは1990年代 後半のことであるこの時期アメリカでは WWEとWCWが月曜夜の視聴率戦争を 繰り広げていた先に放送を開始していた wwのマンデーナイトロと同時刻にwcw がマンデーナイトロの放送を開始96年6 月からおよそ2年間はwcwが毎週勝ち 続けていたwcwは1993年に副社長に なったエリックビショフがハリウッド的な 緻密なストーリーを導入しさらに1999 年には舞台裏で本当に脚本担当をしていた 放送作家のビンスルッソをWWFから 引き抜くとルソは実際の役職そのままの キャラクターでリング場に登場し たプロレスには脚本がある私がそれを書い ているというわけで ある一方のWWEも 1997年から社長であるビンス マクマホンジュニアとストーンコールド スティーブオースチンとのコを始めとする アティテュード路線を展開しリング場での 選手同士の戦いよりも喧嘩越しでくだら なくて下品でエロくてハードコアという 方向でのアングルあるいはスキット イコール寸劇に力を入れていくように なるさらに1999年には株式市場の ナスダックに上場するにあたって事業内容 を公開する必要がありここでアングルの 存在を公式に認め たそしてこれらアメリカの2代団体の状況 は衛生放送によって日本にも紹介される ようになり当時の日本のプロレス関係者 たちはアングルの存在が明らかにされたと いうことに大きな衝撃を受けた この当時日本国内で他に先駆けてアングル 作成に外部の脚本家を起用したのがFMW であるFMWは1989年に大田淳によっ て旗揚げされたが1995年5月5日の 川崎球場大会で大田は引退試合を行って おりその後元リング穴だった新井正一社長 による新体制となりリング場は冬行動が 仕切ってい た当時のFMWは衛生放送のデレクTVと 業務提携することによって映像の重要度が 増しエンターテインメント路線に大きく シフトしようとしてい たそしてFMWは早くからWWEマニアと して有名だった漫画家でタレントの杉作J 太郎をブッカーとして勝平する 次作は週に34回行われたアングル決定 会議に出席しレスラー間の人間関係の把握 に務めまずは地味な中堅選手に個性的な キャラクターを与えることから着手し た例えば実力はあるもののスター選手とし ての花にかけ永遠の2番手と目されていた 田中正は理不尽な権力に立ち向かう和生 ストーンコールドにといった具合で あるさらに早すぎたハッスルとでも呼ぶ べきかわからせな草潤といった人気 セクシー女優たちをD馬し当時のWWEの 18番でもあるアダルト路線の試合形式で 歯車ドレスハギマッチやブラ&パンティ マッチなど 観光このように杉作は大田淳が離脱した後 のFMWの進路線であるエンタメプロレス を支えるために大きな役割を果たした彼は プロレス村の住民ではなかったので従来の ブッカーでは思いつかないような自由な 発想をアングルや試合形式に取り入れる ことができたさらに杉作は裏でアングルを 作るだけでなくその個性的なキャラクター を生かしてデレTVの中継番組の解説も 担当しヒールレスラーとの絡みも見せてい たそんな杉作がアングルを主導したFMW は1999年11月25日横浜アリーナ ジャッジメントデイで1つの頂点を迎え たセミファイナルは田中正斗と富行道の 北電金網敗者追報デスマッチメイン イベントはWWEのスーパースターシン マイケルズをレフェリーに迎えて行われ H江崎H対ミスター 元之長満員とはかなかったがこの2つの カードで巨大な横浜アリーナに一応満員と 呼べるほどには客を入れppvを成功させ たのだから杉作の功績は称えられるべきで あろうだがこのように順調だったFMWだ が2000年3月デレTVが日本での授業 を停止 放映契約が途中で打ち切られたことによっ て経営が苦しくなり仕掛けの規模を縮小せ ざるを得ない状況になってしまっ た試合会場に巨大プロジェクターを設置し てスキット映像を流しマネージャーや ナレーターなどレスラー以外のキャストも ブッキングしなければならないエンタメ プロレスは通常プロレスの何倍もの経費が 重んで しまうデレTVのによってFMWの エンタメプロレスは急激に失速していっ た一方この時期新日本も外部からの クリエイターをブッカーとして起用して 大きな工業を打った2000年4月7日と 10月9日に行われた2度の東京ドーム 大会この2大会のブッカーを務めたのは ウレッコ放送作家の落正斗だった 4月7日の大会は8年半ぶりにゴールデン タイムで生中継され たドーム衝撃ドームインパクトという大会 名を見てもピンとこないかもしれないだが ワールドプロレスリングスペシャル橋本 深夜44歳小川尚弥に負けたら即引退 スペシャルという番組名を聞けばあああれ かと思い出す人もきっと多いだろう 負けたら即引退という言葉のインパクトは 大きかった橋本深夜がメインイベントの 勝敗に引退をかけたことで大きな話題を 呼び瞬間最高視聴率は24%を突破して 平均視聴率は15.7を 記録会場の東京ドームには6万人長満員の 監修が詰めかけるという大ヒット工業と なった ちなみに当初のブックでは橋本の勝利に よって引退回避となる予定だったしかし それを聞かされた猪木がそんな見えしいた 結果にするなと激怒試合直前の鶴の一声で 橋本惨敗に変更されたと いうその後の橋本の行成を考えるとやはり ここでも猪木に振り回される新日本の伝統 は生きていたと言えそうだ だがこの理不尽な結末が次の東京ドーム 工業への最高の前振りとなっ た即引退スペシャルの成功に味を占めた 新日本はわずか半年後の10月9日の東京 ドーム大会において同じくオシをブッカー として今度は兄弟ネタで感動ドラマを 繰り広げることに なる橋本復帰を願って100万場のをった 兄弟がテレビ番組スポコンとの連動タイ アップでリングサイドに陣取り橋元の復帰 に正当性を与える役割まで担ったので あるこの橋本を軸とした東京ドム大会だけ でなく同時期の新日本では引退していた 長州を引きずり出すために大淳が仕掛けた 真辺あとの大劇場も話題となっておりこの ままアングルのエンタメプロレスに向かう かとも思われただが元々ストロング スタイルを標榜している新日本がエンタメ 路線に振り切ることはなくその後数年は 猪木の移行もあって格闘技とクロスする ようになっ たこの間リング場でジュプロレスとしての まともなアングルが展開することはなく 新日本は長い低迷期に入ることになった ブッカーは人の意見を聞きすぎてはいけ ない独断的でなければならない新日本が 校長だった80年代から90年代にかけて は優秀か優秀でないかはさておくとして 独断的な物価がい た新馬久ミスター高橋長州力長嶋勝 上井文彦たちである彼らはブッカーとして の権力を持っていた例えば90年代の当今 三重子を中心とする時代であれば長嶋が 考案する数々のアングルを現場で絶対的な 権力と発言力を持つ長州が各選手に有を 言わさず言い聞かせることで成功を納める ことができたの だちなみに舟木が2024年6月9日に 公開したYouTubeにおいて新日本で は坂口政治藤浪辰大正哲夫田中秀和リグア などもマッチメイクを行ってい たレッスル1ではほとんどの選手がマッチ メイクに関わったなどと証言して いる当時は1選手がアングルを持ち込むと いった自分勝手な行動はほぼ許されなかっ たそんなことがまかり通っていたら80年 代の藤浪も長州も90年代の もきっと当時のような活躍はできなかった だろうだが新日本では京1との対抗戦を 推進するなど格闘技と関わることに積極的 だった上井文彦が2004年10月に代謝 してからは特定の誰かがブッカーとなる ことはなくなっ たその後のマッチメークは長の正や重 サンダーライガーと内のマッチメイク委員 会とする数名の社員とで行われるように なったが合議性ではうまくいかなかっ た団体内で絶対的な権力を持たないものが ブッカーになると辻書きの内容よりも各 選手の移行が尊重されるようになって しまうこれでは全ての選手が平等にいい 思いができるがただし強烈なインパクトは ないアングルばかりになってしまうのだ ブッカーは先々のことを考えておかなけれ ばならない年間の工業スケジュールと 照らし合わせてアングルの結末をどこの 会場へ持っていくのかそしてハッピー エンドバッドエンドのどちらで終わらせる のかを決めるのもブッカーの重要な役割で ある毎回ベビーフェイスがヒールの宿敵を 倒してハッピーエンドにしていたのでは その後にストーリーがつがっていかない 随所にバッドエンドを挟み込むことで 初めて観客の興味を次のシリーズまで 引っ張ることができるの だただしこのバッドエンドの回数が増え すぎると今度は後味の悪い工業が増えて しまって客足が鈍る可能性もあるチケット の売れ行きを見ながらいざとなれば即座に 結末すら変えてしまえる柔軟性がここでも 必要となってくる 2024年6月もう長年にわたってイビル 引きいるハウスオブトチによるバッド エンドが多すぎる新日本はどうするつもり だろうか誰がどこでどんなブックを書いて いるの だろうとにかく何でも昭和が良かった平成 が良かったとは言わ ないだが時代が進むにつれて何をするにて も誰もが不快にならないように配慮し なければならないという考え方が強調され すぎているように私は 感じるプロレスのアングルだけではない プロレスであれ他のどんなジャンルであれ 現代はそのような意識が強すぎるから平凡 で面白くないものが増えてきているような 気がしてなら ないファンもファン以外も含めてみんなが あようなプロレスの アングル時代は変わったそんなものはこの 先もう出てこないのかもしれ ないご視聴ありがとうございましたこの チャンネルは毎週土曜午前10時に公開 チャンネル登録高評価よろしくお願いし ます

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新日本も、外部からのクリエーターをブッカーとして起用して大きな興行を打った。2000年4月7日と10月9日に行われた2度の東京ドーム大会。この2大会のブッカーを務めたのは売れっ子放送作家のおちまさとだった。

4月7日の大会は、8年半ぶりにゴールデンタイムで生中継された。「導夢衝撃~DOME IMPACT~」という大会名を見てもピンとこないかもしれない。だが、「ワールドプロレスリングスペシャル・橋本真也44歳 小川直也に負けたら即引退!スペシャル」という番組名を聞けば、あぁ、あれかと思い出す人もきっと多いだろう。

「負けたら即引退」という言葉のインパクトは大きかった。橋本真也が、メインイベントの勝敗に引退をかけたことで大きな話題を呼び、瞬間最高視聴率は24%を突破して、平均視聴率は15.7%を記録。会場の東京ドームには6万人(超満員)の観衆が詰めかけるという大ヒット興行となった。

ちなみに当初のブックでは、橋本の勝利によって引退回避となる予定だった。しかし、それを聞かされた猪木が「そんな見え透いた結果にするな!」と激怒。試合直前の鶴の一声で、橋本惨敗に変更されたという。その後の橋本の行く末を考えると、やはりここでも「猪木に振り回される新日本」の伝統は生きていたといえそうだ。

だが、この理不尽な結末が、次の東京ドーム興行への最高の前振りとなった。「即引退!スペシャル」の成功に味をしめた新日本は、わずか半年後の10月9日の東京ドーム大会において、同じくおち氏をブッカーとして今度は「兄弟ネタ」で感動ドラマを繰り広げることになる。橋本復帰を願って百万羽の鶴を折った兄弟が、テレビ番組「スポコン!」との連動タイアップでリングサイドに陣取り、橋本の復帰に正当性を与える役割まで担ったのである。

この橋本を軸とした東京ドーム大会だけでなく、同時期の新日本では、引退していた長州を引きずり出すために大仁田厚が仕掛けた、真鍋アナとの「大仁田劇場」も話題となっており、このままアングル重視のエンタメプロレスに向かうかとも思われた。

だが、もともとストロングスタイルを標榜している新日本がエンタメ路線に振り切ることはなく、その後数年は猪木の意向もあって格闘技とクロスするようになった。この間、リング上で純プロレスとしてのまともなアングルが展開することはなく、新日本は長い低迷期に入ることになった。

#プロレス #猪木  #長州力 #前田日明

3件のコメント

  1. 主役と脇役、その入れ替え、絡み…….。
    難しいですね。
    そんな事を考えずに楽しんでみていたプロレスもいいけど、こういう角度から見る
    プロレスも又面白いですね。

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